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第12回エチカ福島の内容まとめができました。
2019年8月17日土曜日
ゲストにガイアみなまたの高倉草児さん・高倉鼓子さん(ガイアみなまた)をお迎えして、

「公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」

というテーマでお話をいただきました。
そのまとめができましたのでここにアップします。

 

以下、本文

 

【ガイア水俣の歴史と高倉兄妹】

草児
 まず僕らの話をさせていただきます。ガイアみなまたで働いていると言いましたが、もともと僕の親父は千葉県茂原市出身で、若い頃に社会運動というか旅をして九州に来ました。そのとき熊本で本田啓吉さんという水俣闘争の思想的リーダーにたまたま出会った際、「今水俣が熱いからそこへ行ってみなさい」と言われた。そのまま水俣に居ついたのが親父でした。おふくろはまた別の理由で水俣に来たと思うのですが、詳しく聞いていません。とにかく流れ流れて水俣に残りました。親父は水俣に移り住んでから、水俣病患者の川本輝夫さんと、水俣病の見えない患者さんたちをどんどん発見していって明るみにさらしていこうという未認定患者掘り起し運動をしていました。

鼓子
 未認定患者というのは、水俣病に認定されていない人々を指します。水俣病は県知事の判断でもって認定か棄却かが決まるので、医師の診断ではありません。そもそも認定申請制度を知らなかったり、申請すること自体に差別的な視線が注がれていた背景もあって、側から見れば水俣病の症状があるように見えるのに、申請されていない方々が多数いました。父はその掘り起し運動に取り組んでいたんです。
草児
 本来は国や県が未認定患者の掘り起こしをしなければいけないのですが、そのような方々がたくさんいたというので父はその運動に取り組んでいました。さきほど主催者から「相思社」というワードが出ましたが、正式名称は水俣病センター相思社といって1970年半ばに構想されて建てられた施設です。目的の一つが、患者さんとその家族の拠りどころにしようというものでした。
鼓子
時代的に1970年半ばは、水俣病第一次訴訟という大きな裁判で勝訴した患者たちがその後どう生きていくかという問題がありました。勝訴はしたけれど、患者さんの人生はそこで終わりではないので、地域で孤立している患者さんがどう生きていくのか。その生業や運動の拠点としようとしたのが相思社でした。
草児
 運動も続いていたので、相思社の中でも裁判を支援したり、患者さんとの共同作業という意味ももちろんありますがもう一つには相思社自体の運営のためにもキノコ工場をつくったり、堆肥をつくって売ったり、長野県までリンゴを仕入れに行ってそれを配達して売ったりだとか役割を分担していました。いろいろやっていく中で、今も残っているのが甘夏づくりです。当時、不知火海沿岸を中心に漁師として生業を立てていた人たちが水俣病を発症して生活できなくなっていたという経緯があるので、甘夏が熊本県下で栽培を奨励されていたこともあり、甘夏づくりに向かう患者さんたちが出てきます。第一次訴訟勝訴の後に、その人たちが生きがいとして何をしようかということになりました。ランクが決められ、1600〜1800万円の補償がもらえることなったのですが、そのお金は医療費の借金のカタなどに消えて何になるのかということになります。そのとき、運よく甘夏があり、じゃあ陸に上がろうということになりました。出稼ぎなどで稼いだお金で根気よく苗木を買って一本一本植えていきました。そのとき植えた苗木が今でも現役です。その患者さんたちの甘夏づくりに対して、主に販売事務局としてかかわったのが相思社だったのです。親父たちは相思社で仕事をし、甘夏については特に生活クラブという生協とおつきあいが始まって販売量も増え、何とか生活ができるようになりました。甘夏をつくっている主体は患者さんたちだったので、その団体名を「水俣病患者家庭果樹同志会」(以下「同志会」)としました。それが、いま「きばる」という名前に変わっています。そのときにはまだガイアみなまたはありません。ガイアは1990年に出てくるのですが、1989年に起こった「甘夏事件」というのがきっかけになります。当初、「同志会」をつくった際に、水俣病の被害にあった人間ができるだけ加害者にならないようなものづくりをしようというスローガンを掲げました。農薬や化成肥料が改善要素の最たるものでしたから、農薬はできるだけ使わないようにしよう、肥料も有機質のものを施肥しようと決めて、つくっていました。だから、農協さんとは違う流通網を立ち上げる必要があった。そこに協力してもらったのが生活クラブ生協さんや、日本各地で甘夏を買ってくれる人々だったんですね。やるからには独自の基準をつくらなければいけない。たとえば酢とか焼酎を代替資材として使って甘夏をつくるであるとか、農薬を減らしているので外観は市場のものと異なるよ、という基準を外部に示していました。ところが1989年にカイヨウ病がかなり流行ります。カイヨウ病とはコルク状の斑点がミカンの皮につく病気なんですけれど、これに加えて裏年というか生産量の少ない年だったんです。欠品がかなり見込まれたので、相思社の甘夏部門が同志会の基準に合致しない、会員外の甘夏を手配して補填したんです。それを消費者にあらかじめ伝えておかなければいけなかったんですけれども、できなかった。それは不義理じゃないか、水俣病の裁判支援や患者さんとものづくりをする人間たちがいかがなものかと、ある新聞の一面に載ってしまった。その片を付けなければいけないということで、父や母たちを含む相思社の一部メンバーが引責辞任しました。もともと、よそから水俣に入ってきた人間ですから地元に帰る術もあったのですが、せっかく植えてつくった甘夏があって、その甘夏をつくり続けたいという患者さんたちも数人おられた。だからもう一度、不義理してしまったことを反省して、再スタートしたのがガイアみなまただったんです。とはいってもその経緯については本で読むだけの知識しかないので、本当のところを僕らが理解できているわけではありません。はじめ9人のメンバーがいて、引き続き甘夏の販売を担うことになりました。ただ、「水俣病患者家庭同志会」という名前は使えないので、「きばる」という名前に変えたわけです。それで、資料にあるのはガイアみなまたの通信です。ガイアみなまたを立ち上げた頃から出しているのでもう59号になります。そこに親父たちの思いをコラムとして載せています。我々兄妹は相思社の時代に生まれ、そういった親父たちの背中を見ながら育ちました。
鼓子
 大きくなってから気づいたんですけれど、ガイアみなまたが他の会社と異なるのは、共同生活の場でもあるという点です。当時5つの家族が集まって有限会社を立ち上げたんですけれど、貧乏なのでお昼と夕飯はみんなで食べる。子どもたちもまだ小さく、総勢20人くらいで食卓を囲んでご飯を食べる日々で、車もシェアし、保育園のお迎えも親たちが交代でしていました。【親の水俣闘争に無関心な子どもたち】
草児
 堆肥もつくっていたからか、蠅なんかが飛び回ってすごい環境だったね(笑)。今日話すことはある意味特殊なことかもしれません。親父たちは水俣病に深くコミットしてきた、そして甘夏づくりの背景にあるのは水俣病患者さんたちとの共同作業です。そこで育ってきた我々なんですけれども、それだけのバックボーンがありながら、全然水俣病のことを知らなかったというか、知る気がなかったというのが高校生までの生活でした。目の前には水俣の海が広がっていましたし、僕なんかは小学生の頃からずっとその海で泳いだりして遊んでいました。けれど、全然水俣病に興味関心がなかった。
鼓子
 私も、小中高を通して水俣病に興味がなかったし、父親にそういう話を聞くこともなかった。学校の授業で、水俣病について教科書の勉強だけでなく語り部さんの苦しみや思いを聞く時間はあったのですが、チッソについてみんなで話そうとか水俣病事件について深く考える場というのは授業の中にはなかった。当時そういう教育は受けていないと思っています。

草児
 高校卒業するときも、僕は大学に行くんですけれど、大学に入りたい理由というのが水俣を出たいからというものでした。何もない水俣から出て、早く都会へ行きたい。結局神戸の大学に通ったんですが、僕の話をすると学部の同級生たちから「お前、水俣出身なんだぁ。水俣出身なら水俣病のことを教えてくれよ」と聞かれます。でも、全然知らないから、「本でも読んでおけよ」と言いながら、僕は隠れて図書館でこそっと本を読むんですよ。色川大吉さんの『水俣の啓示』という本とか。無茶苦茶おもしろいなと思いました。 だから、僕は大学の図書館で初めて水俣病と出会ったわけです。風景としては、さきほど言ったように、水俣の海は目の前にあったし、親父たちが甘夏を売っていたし、水俣病の患者さん、特に胎児性の患者さんたちがガイアの事務所に遊びにきてくれていたので、一緒にご飯を食べたりなんかしていたんですけれども、それはよくも悪くも日常風景の一部だったので、彼らが水俣病患者だということをまったく意識しないんですよ。○○さんっていう個別の名前でしか認識していなくって、胎児性の患者さんとしては認識していない。今考えると、そこは不思議なところなんですけれど。

鼓子
 私の場合は、ちょうど私が大学に入学した2006年以降、明治大学や和光大学で水俣展が開かれていたので、水俣を外に行ってようやく知りました。水俣ってこんなに注目されていて、こんな立派な展示があって、土本さんのドキュメンタリー映画もそこで初めて見るという。外に出てようやく注目されていることを知って、勉強しなければいけないなっていう気持ちになりました。2006年は水俣病公式確認から50年でもあったので大々的に水俣が報じられているのを見て、水俣出身なのに知らないのはまずいなと思いレポートを書いたりしましたが、そこで止まっています。それ以上発展させようという気持ちはなかったです。
草児
 僕も図書館で本を読んだといいましたが、詳しい学術書をたくさん読んだわけではなく、ミーハーなんです。緒方正人さんの「チッソは私であった」なんて、カッケーなぁって思ったりして。今思えば恥ずかしい限りですが、そういう表面的なところでしか触れていなかった。
鼓子
 展示を見に行くと、知っている人がいっぱい写っているんです。ふだん自分の周りにいる人たちがメディアに写って、写真に切り取られているときのカッコよさ。こういう人と知り合いなんだなぁと思いましたが、それ以上深くは考えませんでした。

草児
 大学卒業後、僕はとある生協に入りまして、一年間コールセンターに配属されたのですが、その窓口業務に耐えられるほどできた人間ではなかった。次の年には、仙台で冷凍食品の営業を10か月したんですけれど、そこでぐうの音をあげてリタイアをし、そのまま水俣に帰って来たんです。まったく胸の張れる帰り方ではなかったんです。ほうほうの体で逃げ帰って、たまたま親父たちがまだ甘夏をやっていたから、働かせてくださいということでギリギリ働かせてもらえたんです。他にどこに再就職するとか考えなくて。そのとき自分はどこにも適応できない弱い人間だと、すごい思いながら逃げ帰ったので、何も考えず実家に戻ったというのが正直なところです。
鼓子
 私の場合は大学卒業して東京で就職したんですけれど、じつは就職活動をする前にガイアみなまたに入ろうとしました。農業に興味があったので、農地もあって甘夏も植えてあるガイアは魅力的でした。水俣病のことを何かということは一切頭にはないんですけれど、親がやってきた甘夏の仕事を継ぎたいという単純な気持ちで、就職活動する前にガイアで働きたいんだと父に相談したところ、「やめてくれ。お前が帰ってくる場所はない」と言われました。父は私が外で働くことを望んでいたし、大学も必ず卒業して、それから広い世界を見て来いと。もしガイアに戻って来たいと思っても、一回違うところに就職してからにしろと言われていたので、一度農業法人に就職しました。が、兄と同じで、私も東京での暮らしが合わなかったので水俣に帰りました。でも、私が水俣に帰って水俣病を伝えるんだとか、そういうキラキラしたことはまったくなくて、居心地のいいホームに帰りたいという気持ちが強かったんです。
草児
 ここが重要だと思うのですが、親父は帰ってくるなと言うんですよ。一回飲んでいるときに、「ここはちょっときついぞ」と言われたことがありました。
鼓子
 水俣病のことも、何で私たちに伝えてくれなかったのかなと、大人になってから思っていて。
草児
 僕らは知ろうともしなかったんですけれど、親父は逆に自分がやっていることを伝える気があまりなかった。
鼓子
 なぜだったのかと聞いたら、自分が話すと偏るからと言われました。被害者の立場に立って、裁判も一緒に闘っている人間の言葉を子どもに聞かせると間違いなく自分の方に寄ってしまうから、そうではなくて自分で学んで判断してほしかったと。「君たちが聞かない限りは、何かを伝えようとは思わなかったし、興味があるならば答えようと思っていたけど、聞かれることもなかったから」と言われました。
草児
 でも、「闘う人」というのは滲み出てましたけどね。親父に電話がかかってきたときのことです。最初親父も礼儀正しいのですが、いきなり「もう知らん!」と言ってガンと電話を切って、「塩まいとけ!」と言うんです。激しいんです。だから、この人は闘っているんだというのは、言わなくてもわかる。小学校の頃ですけど、何かの会議から帰って来るなり、「うわー!!!」と叫んで畳をドンドン叩き出すんです。すごく鬱憤がたまっているんだ、というのは傍目に見てわかるんです。
鼓子
 裁判や交渉などで父がメディアに取り上げられ、テレビに出てくるんですけど、何で父が出てるのかわからないのと、水俣病にかかわっていることをあまり友達に知られたくないので、次の日に学校で友達から「お父さん出てたね」と言われても、「へぇ〜」と流していました。あまり自分も深く知ろうと思わなかったですし、恥ずかしいと思っていました。父が水俣病にかかわっている人として出ることが嫌でした。
草児
 結局、今ガイアみなまたで働いているんですけれども、帰って来た当初は特にそれぞれ何も考えていなかったのが正直なところです。ところが、年を経ていっぱしの大人として扱われるようになると、水俣の見え方というか、かかわり方が少しずつ変わってきます。一つは地域にかかわる共同作業とか、町おこしの中で地域にかかわるようになると、ガイアみなまたという評価がもろに出てくるんですよ。ガイアみなまたというと、くり返しますが、元々は相思社で働いていた人間がやっている会社です。じゃあ、相思社で何をやっていたんだというと、患者さんの支援をしています。語り継ぐという作業をやっていますと。そこで、ちょっとうがった見方をすると、色がついてしまう。「あぁ、高倉さんの息子さんね」というのはある種のレッテルなのかなと思って、最初は変に反発もしていました。そういう風に見られると嫌でも意識せざるを得なくなる。親父がやってきたことは何なんだろう、ガイアみなまたが今やっていることって何なんだろう。ガイアみなまたで働くことで私たちができることって何なんだろう、と次は自分のレベルで考えるようになる。水俣って今、「再生」、「環境創造」とか明るい方へ明るい方へ向かっている。それはとても大切なことなんですけれど、それと「水俣病事件が解決した」ということとは、ちょっと違う。何でもそうだと思いますが、過去の事実、失敗や衝突や努力の積み重ねが土壌として重なり合って、その上に未来が花咲く。だから過去と現在、そして未来は簡単に切り離すことができないんですよね。そんなきれいに花は咲かないよ、と。そこに違和感があって、だからせめて「いや、今もむっちゃ大変なんですけど何とか前に歩いていこうとみんなギリギリ頑張ってるんですよ」みたいな、地に足がついたところのもどかしさを伝えたいという思いもあります。一度、環境省主催の講演会が東京であって、僕らパネリストで招かれたんですけど、「あばぁこんね」という団体による町おこしのような事例を報告した時に、最後のまとめで「若い人がこんな風に未来に向かっていろんなことをしようとしている。水俣ってすばらしいですね」みたいなまとめを、当時の環境省の事務次官がまとめようとしたので、僕が思わず「まだそんなんじゃないと思います」と言ってお茶を濁してしまったことがありました。全然、すばらしいことができているとも思っていなかったので。とにかく自発的ではないんです。周りから、外的要素から自分を考えるようになったんですよ。
鼓子
 私は2016年にガイアで働きはじめ、「きばる」をやっているけれど、そもそも「きばる」の生産者27軒の人たちがどういう人たちかなのか知らなかったんですよ。ずっと父たちの代からお世話になっていて、その甘夏の売り上げのおかげで私たちは生きてこられたのに、どういう人たちがつくっていて、どういう気持ちでやってきたのかまったくわからなかった。だから、兄と一緒に話を聞かせてくださいと聞き取りにまわったんです。そのときに、女島という地区に住んでいる緒方幸子さんから「あんたたちのお父さんたちが運動してくれたおかげで今があるとよ」って言われて、凄くびっくりしました。「高倉さんの名前聞いて、ここで感謝せんもんはおらんよ」って。お世辞もあるんだろうけど、それでも本当にうれしかったです。やっぱりどこかで私は父たちがやっていることを恥ずかしいと思っていて、やってきたことはあまり地域で受け入れられていないし、相思社やガイアみなまたという存在がよそ者の集まりで、水俣を混乱させているという見方をされているんじゃないかと、ずっと思ってきたので。60代以上の方々からは直接そのようなニュアンスで言われることもあって、相思社というだけで「ああ、あの相思社ね…」みたいな。そういう気持ちもあって、自分も父母がやっていることを評価できていなかったので、あらためて「来てくれてよかった」と言ってもらえたことがうれしくて、そのときからようやく私は父たちがやってきたことを知らないといけないなと思って、私の場合はそこからぐっと水俣病事件とは何だったんだろうと、勉強し始めました。【沖縄・高江の座り込みから学ぶ】同じ時期に私は沖縄の高江に行ってきました。FacebookやTwitterでちょうどそのとき、沖縄の高江にヘリパッドがつくられていることを知りました。政府が工事を強行する中で住民が反対しているんだけれど、140人しかいない小さな集落に機動隊が500人以上投入されていました。高江に行って自分もびっくりしたんですけれど、肌で感じることが多かった。
鼓子
 父母たちがやってきたことは、私とか次の世代が苦しい思いをしないようにとか、もっとみんなが住みよい水俣にしたいという気持ちからなるものなのかなということを、高江に住む人の話を聞きながら思いました。運動とか闘争と呼ばれているけれども、人間が幸せに生きるためにはどうすればいいのか、尊厳を守るってどういうことなのかといった根源的な問いを、一生懸命考えた上での行動が座り込みなどの住民運動なんだと。父の場合、裁判闘争が主だったのですが、裁判というシステム上で闘わざるを得なかった苦労に思いを馳せることが、ようやくできるようになりました。だから、兄と違うなと思うのは、兄は一歩引いて水俣病事件を見ていて、私は一歩前に出てるんだよね。【水俣の記憶と世代間伝達】
草児
 兄妹でバランスを取っているのかもしれない。やっぱり伝えるということは大事だと思っていて、この10年が何もしなければ水俣という言葉が少しずつ消えていくだろうなということをひりひりと感じています。記憶としても事実としても消えていくというか。水俣病事件というのはいろんな記憶の集合体なんですよね。甘夏ミカンを通して水俣を生きてきた人もいれば、かわらず漁をしてきた人もいるし、裁判をしてきた人もいるし、チッソという側から見てきた人たちもいる。いろんな糸が寄せ合って一つのものを織りなしていると考えると、我々はその一つの記憶でしかないんですけれど、格好つけていえば、小さな物語を伝えることの意義というものを今すごく考えています。じゃあ、それを伝えたところで実際に何の効果があるかはわからないんですが、2,3人ふり返ってもらえればいいかな、と。その伝えるということをどうすればいいか。生まれ故郷で暮らしていると、いわゆる親父サイドではないその他大勢の方々とふれあう機会がたくさんあります。その中で、「お前の親父が水俣に入ってきたことで大変だった」と、実際に面と向かって言われたこともあります。でも、今考えてみると、その人にもそういう発言をするだけの理由があるんですよ。悲しいつらい過去を経験していて。だから、親父たちを責めることが第一義にあるのではなく、「この思いをどうしたらいいのか」みたいなのがあって、どこにも言うところがないから、とりあえず目の前の人に言うみたいなところがあるんじゃないかと思います。だから、それは甘んじて受け入れたい。もともとケンカすることができない性質なのですが、ガイアの兄妹間の役割で言えば、妹がすごい突き進んでやってくれているところがあるので、僕は逆にあまり突っ込まない。この間も市議会の傍聴とかに行ってたよね。今度どうなんだっけ?公害が消えるんだっけ?
鼓子
 水俣市議会の特別委員会に公害環境対策特別員会というのがあるんですけれど、そこに「公害」という名前がついていると、未だに公害が発生していると思われたり、水俣に企業を誘致する際にマイナスイメージになる可能性があるから外しましょうという議案が出されて、可決されてしまったんです。環境問題として取り扱えばいいじゃないかとなったんですね。
草児
 じゃあ僕も妹とこういう活動を一緒にやるかとなると、ヘタすればガイア自体が全部それになってしまう。そうなると、その他大勢の人の理解を得られないなと思って。これは戦略的に卑怯だと思われるかもしれないけれど、僕はその他大勢の人たちと関係を保つ役になろうと何年か前から意識しています。とにかく、ガイアみなまたというのは、めちゃくちゃうまい甘夏を売る団体であります。そして、その甘夏からめちゃくちゃうまいマーマレードをつくる団体であります、というところを目指したい。このあいだ、愛媛県八幡浜市でマーマレードアワードという審査会があり、日本中のマーマレードを集めて品評会をしようじゃないかということになりました。もともとイギリスでやっているんですが、その日本版です。そこに出品したら、ハイ!銀賞いただきました(拍手)。ある種の正当な評価を得るということを僕はすごく意識しています。評価を得たからと言って、何か役に立つわけでもなく、売り上げにつながるかどうかはまた別の話ですが、そのことによって一部の人たちが僕らの存在を知ってくれるというのは、僕らにとってかなりのメリットだと思っています。その銀賞を取ったガイアみなまたが、こんな変なことをしているという文脈の方がわかりやすいと思っているのです。
鼓子
 兄はこう言っていますが、私は違います。私は変なことをしていると思っていないんですよ。たしかに、父たちがやってきたことは左翼運動、言ってしまえば過激派と見られていたので、私の中にもそれに対する偏見があったんですよ。運動やっている人というのをどこかで切り離したい気持ちがあったから、ちょっとかかわりたくないというか、あまり評価ができていなかったんです。でも、やっぱり高江に行ってみてわかったのですが、座り込みをやっている人たちって本当に普通の人たちです。そこで暮らしている住民が別に運動をやりたくて住んでいたわけではないのに、いきなり自分たちの住んでいる環境にヘリパッドができてどうしようとなった。でも、運動とかやったことないから、とりあえず座り込むことで抵抗の意思を示そうという方法をとるわけですよ。父たちも運動がやりたくて水俣に来たわけでもないし、たまたま水俣に来て、水俣が気に入って、患者さんと出会ってしまったから、この人たちを置いてどこかに行く気持ちにはなれなかったという、人間のつきあいで住んでいる。運動がすべてではないということがわかったんです。だから私は変なことをやっているわけではないんだということを、高江に行ってわかったんです。高江や、沖縄の基地反対運動している方々に向けられるネット上の批判は、かつて父たちが言われていたことに似ています。だからこそ、権力に立ち向かっている人たちに対する偏見を自分が持つのはおかしいなと思いました。私が高江に行くと水俣の知り合いのおじさんに話したときも、「日当2万円、出っとやろ」と言われました。おじさんはネットやっているように見えないのに、なぜ日当の話をするんだろうと頭を抱えました。アカが集まっているとかものすごい偏見を持っている。沖縄の宿に泊まったときも日当が出るって話は言われて、そういう偏見、わかってもらえなさ、お金のためにやっていると思われるくやしさを感じた。でも、高江で学んだのは、住民の人たちは伝え方をものすごく研究しているということでした。偏見の目で見られること、SNSで発信すると炎上してしまうようなことをどう工夫して伝えるか、共感を持って注目してもらうためにどうすればよいかを考えて実践している石原さんというご夫婦に会うことができて。二人は座り込みの現場で、夫婦で笑顔で写真を撮って、それをSNSで「僕たちの笑顔は権力に奪わせません」と発信して、「いつでも愛とユーモアを」とずっと言っているんですよ。傍から見ると、緊迫した状況でそんなこと言っていて大丈夫?って思われるかもしれないけれど、でも否定されることではないじゃないですか。愛とユーモアなんてみんなに必要なことだから。だから、水俣に関して伝えるときも、正しさとか信念を伝えるだけよりも、そこに愛とユーモアを添えることで伝わりやすさが増すのではないかと。父母の運動に偏見を持っていた人たちにも理解してもらえる言葉がつくれるんじゃないかなと、今私は意識しています。本当に一番知ってもらいたいのは、水俣で一緒に生きている人たちです。水俣外の人たちの方がフラットに見てくれるので、市議会が「公害」という名称を外す決定をするなんてあり得ないと言ってくれるんですけど、水俣のほとんどの人は「別にどうでもいいんじゃない」と言うでしょう。他にも水俣病の名称変更についての議論がまた復活したりしていて、水俣病という名前のせいで差別を受けている、その言葉を子どもたちの世代に残していいのかどうか議論したいと言っている方もいる。それはもっともなんだけれど、その言い方では水俣病患者が悪いようにも聞こえてしまう。一方的ではない対話ができないかなと考えています。福島は対話の機会を多く設けられていると思うんですけど、水俣でも同じようにできないかなということを考えています。兄は優しい人なので、センシティブな議論はしたくないタイプなんですが、私は議論はしたいのです。
草児
 親父たちが話す言葉と僕らが話す言葉の使い方は、全然違います。前提として、親父たちが経験してきたことを僕たちは自分のことのように話してはならないと思っているんです。たとえば、ガイアみなまたのテーマには「母なる大地にありがとう」というのがあるんですよ。これはおそらく母の実感から出てきた言葉であると思うのですが、僕らは僕ら自身の言葉を発しなければいけない。いろいろなところで何回かお話をさせていただく機会がありましたが、完全に借り物の言葉なんですよ。僕の口から出てくる言葉は。そのときに感じる無力感。この言葉は絶対10年もたない。僕自身がこんなことをしゃべっていたら空虚なんですよ。僕のリアリティというのは、今は甘夏ミカンなんです。甘夏ミカンが目の前にあってそれを箱に詰めて人に売るっていう。その甘夏ミカンが実は甘夏を通して水俣を生きてきた人たちの軌跡につながっているので、それを自分の中でどう咀嚼して、自分の生活実感を伴った言葉に変えていくかというのが課題なんです。だから、今日も話しながら「あぁこれ、あの人の言葉だ」というのが出てくる。いろんな本をつまみ食いしているから、いろんな人の言葉が出てくるんですけれど、そこから8割くらいの言葉を差っ引いて残ったのが僕の言葉という感じなんですね。そこが忸怩たる思いなのですが。
鼓子
 私は今回のテーマになっている、次の世代に伝えることは意識しています。それは自分が小中高校を通して、まともな水俣病教育を受けた記憶がないからというか、水俣病について全然話せなかったんですよね。知識として社会科の教科書で学び、目の前で患者さんが語りその話を聞くんだけれども、何がどうして水俣病事件がこうなってしまったのかを考えるとか、みんながどう思っているのか話す場が一切なかった。(その授業を実践することは)すごく難しかったと、かつて小学校の先生をやっていた方に聞いたことがあります。それは、私の生まれ育った地区が水俣病患者の多発地域だったことが関係しています。患者家族が同じ教室の中にいたのと同時に、親御さんがチッソで働いている子どももいるので、とてもデリケートな話題になります。そこで先生がチッソの加害性について話すと、子どもがどう思うか。親御さんがどう思うか。そのことを考えると話せることがものすごく限られたと言っていました。水俣病教育に関しては一律にこういう話をしましょうというものがなく、各教員に任されていたようです。その先生のアプローチは水俣病に関する詩とか歌といった表現を通して子どもたちに伝える、それを構成詩という形で発表させる。そういう形での伝え方はあったけれど、事件性を問うとか、みんなでディスカッションをしようということもなかったので、友達がどう考えているのかとか、まったく知らない。そういう環境が水俣病に興味を持てない私をつくったと思うので、じゃあ今、自分が次世代の子どもたちに残せるものは何なのかを考えています。何か指針じゃないけれど、「お守り」のようなものがあったらいいと思っていて、そのきっかけになるような一冊の本をチッソの人たちも一緒に、みんなで話し合ってつくれないかなと考えています。それはやっぱり自分が知らなかったということがあまりにも悔しかったというのが、大人になって気づいたことなので、大人になった自分がやれること、責任を果たすことができるとすれば、子どもたちが水俣で生きていく上で知っておいてほしいことを一つ提示できればいいのかなと思います。水俣病のことを大人になってから勉強し始めたときに衝撃を受けたことがあります。昔の資料って名前とか住所がそのままに載っているんですよ。そこに友達のおじいちゃんとかおばあちゃんとか、おじさん、おばさんの名前が出てきて、患者のいる家も地図で黒丸の印がついていて、それ見ると友達の家だとわかるんです。そういう資料を通して、でも、私たち、そういう話を一度もしたことがなかったから、知らなかったなぁというのがすごく悔しかったし、友達に対して無神経なことを言ったかもしれないと、そのとき思ったんですね。私は親族が水俣にはいないので、一歩引いて見れるんだけれど、自分の家族が水俣病だったりとか、おじいちゃんおばあちゃんが水俣病で苦しんでいる友達がどういう気持ちでいたのかなぁと知らなかったのは申し訳なかったなぁと思って、それはどうしようもないんですけれど、知ったからにはできることをやりたいなというのは…やっぱり知っておいた方がよかったんじゃないかなぁって。タブーだったからできなかったんだと思うけれども、大人がタブーにしてしまったことが、子どもたちが何も知らずに育つ土壌をつくったし、それによって偏見とかも生まれてしまう。大人たちがですね、患者派チッソ派っていう風に分かれて交わることがなかった時代があったので、それによって私自身チッソ派に対して偏見もあったし、チッソ側にとっては私たちの父たちは本当に余計なことをする敵だったと思うし、そこを大人が頑張って交われることをつくっていけば、家庭の中でももっと水俣病の話ができたのかもしれないけれど。でもそれができなかったことは仕方がなかったというのも、事件史を読み返すとわかるんですよね。1995年に政治解決という区切りがつきますけど、そこまでは常に裁判で争っているので、損害賠償の問題ですから下手なことは言えないし、ひざをつき合わせて話すなんてのは無理だったと思います。政治解決がよかったとは思いませんが、それでも、それ以降ようやく話せるという土壌ができてきたということは、改めて次の世代に…ア、何言いたいんだろう。
草児
 つまり、鼓子が言いたいことは1995年以降、補助線がたくさん引けるようになったということだと思うんです。水俣病って裁判闘争の物語を中心に、たとえば第一次訴訟から関西訴訟が終わるまでという一本の流れがあったりするんですが、その中で95年以降、堰を切ったように私はこうだった、私もこうだった、私の親父はこうでね、こういうことがあってねという物語が出てきた。ポール・オースターという作家が、アメリカに暮らすいわゆる一般市民に何でもないような個々人の物語を募ったら、それが「ナショナルストーリープロジェクト」という一冊の本になったという話があるんです。それと同じで、どこぞの誰々が話をするようになったんですね。今度はそれを誰が聞いてくれるのかという問題なんです。補助線が次々できてきた、物語が一つではなくなった。これはものすごいことなんですよ。理解が深まるとかそういうことではなしに、物事がそんなに単純じゃないんだよということが明らかになるんです。水俣病事件もいい人/悪い人、敵/味方と分けられがちです。でも、それは補助線によって解消されることもあるんじゃないかと思うんですが、それは水俣では、今はまだできない。僕は長丁場で考えていて、それは鼓子と意見が違うんですけど、僕があと30年生きられたら65歳です。そうしたらですね、地域内でも発言できる機会が少し増えてくる。それで情勢が少し変わるんじゃないか。そのときまで、これが一番大変ですけれど、65歳になるまで今の志を持ち続けられれば、水俣に新しい補助線を引ける可能性も出てくるんじゃないか。ただ、今はもう本当にたくさん出てきているので、この話を誰かが聞かなければ…どんどん消えていく泡のようなもので、誰かが掬い取らないと話は潰えていきます。僕らが聞き取れるのは、甘夏生産者の話だけです。25人の話で精一杯です。でも、あと何人かいれば100人、200人の話が聞ける。それは別に本にしなくてもいいんです。それを自分の血肉にして、自分の言葉で語りなおせばいいんですよ。それをこの5年、10年でやっていかないといけない。死というものは意外と身近にあるというか、話を聞く前に亡くなられてしまってものすごく後悔したという経験もあるんです。いつ聞くのって、今なんですよね。そのチャンスが今、水俣はめぐってきています。これはかなり希望であると思います。一方でまだ混とんとしているのは変わらないのですが、その中で僕らにとっては、ガイアみなまたというところにマーマレードという商品があることがほんとうに幸いです。マーマレードを軸にして商売をしていくことができる。商売は余剰を生み出していくものですが、その余剰というのは金に変えたり時間に変えたり、いろいろな方法があります。たとえば、妹のように活動する時間に充てたらどうか。資本は、本来は蓄積したり設備投資に充てたりするものですが、あえて別の使い方にしてしまう。そうすると変に滞らないというか、滞る前に使ってしまえというのを、妹がやってくれていると思っています。そういう意味もあって、僕としては商売というものに乗せて、商売ベースの話し方になっていないといけない。それでマーマレードがある。マーマレードというのは、水俣病患者さんとのおつきあいであるとか、ずっと甘夏を買ってくれていた尾崎英里さんという人がつくり方をわざわざ教えに来てくれたことから始まっています。では、このマーマレードを地域の人がどう見てくれているのか、気になります。だから、銀賞を取ったことはよかったと思うし、あるとき水俣に住む友人が「いい商品つくってるじゃん」とふだん言わないことを言ってくれたことがあって、「あっ、見てくれているんだ」と思ったんです。そういう話ができたことが最近一番うれしかったことです。あと、ガイアみなまたは農薬散布を減らした作物なんかを売っている、だからここで扱ってほしいと、ある農家さんからからこっちにコミットしてくれたということも最近あって、これもうれしいことです。とにかくこういうことを軸にしていくと、現地でぶれずにやっていけるかなと思います。
鼓子
 福島で話すことを考えたとき、私は何かの役に立ちたいけれど、何の役に立てるのだろうかと考えました。福島の方も水俣にたくさん来られて、水俣に学ぶということをずっと8年間やっておられるんだろうなと思うんですけれど、私たちは第二世代と言われますけど、その自覚もなかったし、特に何ができるかわかっていないし、伝えるって何だろうって、伝えたいけど自分の言葉が何なのかもわかっていない。たとえば、自分が水俣病の話をしたり顔でしたところで、あの時代を経験してきた先輩方がどう見ているかなと思うと、怖すぎる。だけど話したい、だけど伝えたいという思いがある。その中で、水俣病事件というと悲惨なんだけれども、そこでも人は生きていて、水俣を離れずに暮らしていて、魚をずっと食べているんですよね。魚が大好きで、今でもおいしく食べています。そういう自分の生まれ育った土地への愛とか、海への信頼とか、そういったことを自分の体験とともに話すことしかできないなと思います。それは福島の方々も、似たところがあるのではないでしょうか。水俣病事件といえば劇症型の患者さんがブルブル手を震わせて狂ったように死んでいく姿とか、黒い御旗が上がって裁判でチッソの社長にみんなで詰め寄る姿とか、そういった映像が思い浮かびますし、実際にあったことです。でも、それだけが水俣ではない。水俣病公式確認当時から63年経った今も私たちがもがいて何とか生きていますということを、どうやったら伝えられるかなということを考えながら生きています。最後に、私たちが一緒に働いている生産者グループ「きばる」の会長さんで緒方茂実さんという方の言葉を紹介させてください。茂実さんは妹さんが胎児性の患者さんで、弟さんも患者さん、おじいさんも劇症型で亡くなられてますし、お父さんも原因不明で亡くなっています。お母さんも水俣病。親族のほとんどが水俣病の被害を受けてます。もともと漁師だったのに、小学校6年生のときにお父さんを亡くされて、生業が成り立たなくなって甘夏生産へ転換した人なんです。ちょうど3年前に、福島の原発事故を受けて水俣病事件を経験した人がどう考えるかというインタビューを「きばる」で受けたことがあるんですが、私も同席させてもらって、茂実さんは何を語るのかなと思って聞いていたんです。そのとき、インタビュアーの方が「水俣病事件によって茂実さんが奪われたものは何でしょうか?」と聞いたんですね。その瞬間、茂実さんが固まって、言葉を失われてから、「奪われたものはたくさんあるなぁ」と言って、「数えきれない。けれど、生まれたものもあって、それがきばるです」とおっしゃってくれて…。自分のおじいちゃんが狂って亡くなって、お父さんもある日突然、漁から帰って来たその日に亡くなって、そういう大切な人の死、しかも彼らには何の落ち度もない。そのときは原因がわからずに…苦しかったと思うんです。そこから見出した希望と言っていいと思うんですが、絶望の中にも希望はあるということを茂実さんは教えてくださった。しかも、それが彼にとっては「きばる」だとはっきり言ってくださったことが、私はとてもうれしくて、茂実さんの思いを継いでいきたい。だから、「きばる」は40年は続けると思っています(いや100年でしょ〔草児のつっこみ〕)。今、皆さんは福島で暮らしていて、エチカ福島も7年続けてこられて、言葉にする、考える作業をずっと続けられていることはすごいことだと思っています。復興という旗印のもとに無理やり言葉を引き出されたりとか、ポジティブな言葉を求められたりとか、本当につらいことだと思うんですね。事故が収束もしていないし総括もできるような年月ではないのに、それを求められるのは本当に大変だなと思って、その中で考えるということをやっておられるエチカ福島というのが、私は希望だろうなと思うし、逆に水俣にも輸入できないかなというか、水俣でも立場が異なっても相手を非難するのではなく話を聞く、対話をする場というものがつくれたら最高で、水俣では今はないので…以前はあったんですけれど。
草児
 ですから、対話の場というのはクローズさせるというよりは、結果を出せないままでも100年続けた方がいいんじゃないか。それが水俣ではできていないのかもしれないです。どこかで結果を求めて、終わらせている節がある。
鼓子
 あるいはリーダーが変わってしまって終わらざるを得なかったということもあると思うんだけれど、そこを継続してやっていくということだし、必ずしも正解は一つじゃないんだなということをみんなが言い続けることはとても大事なことだと思いました。【対話編】甘夏事件をめぐって相思社との関係は?
草児
 そのとき、誰もが傷ついたと思います。たとえば当時相思社に残った人の息子さんと僕は小中学校で先輩後輩の関係で、帰ってきた当初、酒飲みながら「お前ら出てったけど勝手だよ」と言われたこともありましたし、そのときは僕も言いたい放題言いました。でもひととおり言い終えたら、あとは特に何も感じることはないです。むしろ、相思社は今とても大事な機能を担っていて、僕らはそこを支えられること、手伝えることがあればしたいですという感じになっています。僕らにできないことを相思社が担っているという認識です。
鼓子
 具体的には、相思社は患者さんの相談に乗っています。患者に認定されていないけれども、自分は水俣病じゃないかという不安を持っている人に耳を傾けて、申請に関するアドバイスをする役割を、永野三智さんという方がほぼ一人で背負っています。他の職員も、永野さんに取って代わることはできないというような、忸怩たる思いを抱えているように、外からの勝手な憶測ですが、私にはそう見えます。私たちも代われないんだよなぁと思っています。
草児
 僕たちもそこには深くコミットできない。彼女も同世代なので何度か飲みながら話すこともありましたが、数年前までかなり悩まれていた記憶があります。それが、どこかでスイッチが入って転回したような印象を受けたんですよ。たぶん、覚悟したんだろうなということだと思うんです。自分の役割を、かなり過酷な役割ではあるのですが、それを引き受けようとしたのがこの数年の間にあったんだろうなと思うんです。外部から見て好き勝手言っているだけなので、これも憶測に過ぎませんが。
鼓子
 私はまだ怖くてできないという部分もあるんです。自分が実際のところ何もできないのに、その人の話を聞くということに罪悪感があるので、被害者の方の苦しみ、今持っている苦しみを聞いて受け止める覚悟はないですね。過去のお話を聞きに行くことはできると思うんですが、今まさに手が震える、足がつる、耳鳴りがするという話に自分がどう応えられるのかはわかりません。永野さんもそれはずっと問いとして持っておられると思います。救えないのに聞くとはどういうことなのかと。
草児
 まあ、ガイアみなまたと相思社の間柄というのは単純に甘夏事件があったから分裂、という括りにはできないと思います。
鼓子
 相思社が大変なときには、いつでも手助けできるように準備しておこう、という心持ちではいます。【患者さんの聞き取りについて】草児
きばるでは目的意識がよくも悪くも甘夏というカテゴリーに限られるので、その範囲で生産者の話を聞いています。その外に飛び出すということは、今は考えていない。でも特に今ガイアの通信上でやっているインタビューについては、その人の持っている言葉をひととおりさらって一字一句間違えず完全に伝えたいということではなくて、もう少し私たちのスタンスを交えて聞き取りに臨むというスタイルになっているかな、と思います。通信なので誰かのインタビュー記事を他の誰かに届けたいというのが半分はありますが、もう半分は自分たちを変えたいからというところがあります。実は自分たちのためにもガイアの紙面を利用している。僕らなりのアプローチの仕方、というのはちょっと意識しています。もちろん、紙面を意図的に改ざんしているわけではないのですが。
草児
 お手元にある通信に掲載されている下田さんという方のインタビューで、僕らの中でめっけもんだったことがあります。それは、ある種自分の中で意見が変わっていくという状態の捉え方。1年前の自分とは違う、あっちやこっちにブレてしまっているというのを、下田さんと話す前はかなり後ろめたく思っていたんですが、下田さんは雑駁に言えば意見なんて変わるんだよ、と。いろいろ摂取しながら、どんどん自分は変容していく。当事者にしても、自分の経験と向き合う中で何度も何度も語りなおすっていう作業をしているんだ、と。だから、語りなおすということを、そこに付随する葛藤を含めて能動的に捉えなおさせてもらえたということが、有り難かった。血肉化していく過程があって、そこを見せる。すると見ている側はどういう印象をもつのか。こいつらまたもがいてるなぁとか。そういう感想を持ってもらうこと自体が、結果的に後押しをしてもらえているというか。だから、僕らはどんどん変わっていくと思います。大筋は変わらないけれど。ちょっと違うようなことを言うようになったねと思ったら、そこはどんどん突っ込んでもらいたいです。何で変わったのか説明できるようなやり方をとっていきたいです。

【補助線について】
草児
 一つの絶対的な正しさってないと思うので、人の数だけ、100人いれば100通りの水俣病がありますということをあぶりだせるといいんですけど。僕らも限られた人の話しか聞けないし、僕らのインタビューは粗雑というか垂れ流し状態なんですよね。
鼓子
 水俣病事件という大きな括りで見るんじゃなくて、そこにこういう人が生きていて、個人の名前があってその人一人ひとりを知ってほしいという気持ちはあります。それはたぶん、自分が知らなかったことへの反省もあるんだけれども。私は水俣病事件のことを、小中高を通して、環境問題だと思っていたんですね。加害企業がいて、チッソがやるべきことはたくさんあったのに、被害拡大を止められたのに止めなかった。その加害性を全然意識していませんでした。あのとき入江さんがこう判断したら、西田工場長がこう判断していたら、熊本県の副知事の水上さんがこう判断していたらとか、数々の「惜しい」が積み重なっているところに固有名詞がある。名前のある人たちの判断が生み出した事件だということを知ると、もっと入ってくるのかなと思いました。固有名詞がもっと出てくればいいのかなというのは兄妹で共通しています。
草児
 今妹が着ているのは「猫400号」Tシャツといって、7色展開、お届けまで一か月待ちです。
鼓子
 猫400号実験というのはチッソがやっていた猫実験の名前です。水俣病は1956年に公式に確認されているんですが、3年後の1959年にチッソは猫実験で一例、400号目の猫が水俣病を発症したことを確認していたので、自分たちの工場の廃液に原因物質があることはわかっています。しかしながら一例だけでは公表するに足らないと判断した。実験をしたチッソ附属病院医院長の細川一さんは公表した方がいいと言ったんですけれど、上層部の判断で一例では公表できなかった。再現性が求められたのですが、それ以降は同じ実験をさせてもらえなかった。だから再現性も何もないのですが。その実験の犠牲になった猫が838匹いると言われていますが、そういう犠牲の上に今があることを私は忘れませんということを示したつもりです。さきほど愛とユーモアという話をしましたけれども、そういう事件性や重大性、悲惨さを伝えたいときにワンクッション置きたいと思った。それをそのまま伝えたらみんなショックだし、聞いて悲しいとなるしかないけれど、それを着るという形にするとか、デザイン性を求めたい。そこで、夫婦のユニットでデザインをやっている友達に猫をモチーフにしたTシャツを依頼して作ってもらいました。メッセージも込められていて、Iwashere.Iamhere.Idiedhereという3つのメッセージが隠れているんですけれど、メッセージを受け取った人があまり重たくならないような、こっそり着てその意思を表明できるようなTシャツがあってもいいんじゃないかなと、水俣病を伝える一つの形として提示したいと思いました。それが補助線の話にどうつながるかというと、わからないのですが(笑)。事件史の中で忘れてほしくない出来事として、猫400号がいたよということを形にしてみたというお話でした。
草児
 猫400号実験の話って歴史年表の上では語れるんですけど、ふだんの井戸端会議の中でもちょろっと出てこないかなぁ、と。雑談の中で出てくる水俣病というか。僕らのインタビュー記事は狙い撃ちしているんですけど、本来はもっと、道端で会った人とたわいもない話をしている中で猫の話が出てくれば。そうすると純粋な雑談として立ち上がってきて、そういうのが1000話ぐらい積み重なればもっと水俣のリアリティが生まれてくるんじゃないかなと思っています。そういう意味でみんな気軽にお話をしようという伏線を張るような作業が、95年の政治解決以降、しやすくなっている気がします。なぜかというと、一回そこで終わっているとみんな思っているからなんですよ。
鼓子
 猫400号Tシャツをつくることも、95年の後だからできたんだと思います。それ以前にやっていたら「ふざけているのか」と、たぶん怒られたと思う。歴史を知らなすぎる、この実験の重大さを認識しているのかと指さされる。でも、一つフェイズが変わったということかなと。
草児
 フェイズが変わったという意味では、じゃあ現在チッソで働く若者がどう考えているかを知りたいというのもあるんです。水俣病から生かせることって、我々にはまだあるぞという補助線の引き方をしたい。裁判闘争ってものすごい闘いで、ある程度みんな知っている事実で、それはそれでいいんですけれど、そこから水俣に入れない人がいるんだとすれば、別の見方があるよということを提示できれば。窓口はいくつもあるんですよという水先案内人になれればと思うわけです。
鼓子
 支援者第二世代でもいろんなグループがあります。それぞれの活動をしていてそれぞれに水俣病の発信の仕方が違うんですが、それが私はいいなと思っています。父たちの時代は闘争が中心だったから発信どころじゃなかったと思うんだけれど、第二世代になって、水俣の海を体感してもらうことを仕事でやっていたり、現在も訴訟で闘っている人たちを支援している人もいます。そこにグラデ−ションがあることがいいのかなと。
草児
 いろいろな窓口がある状況をつくり出したいということですが、どこからでも、一回入ればいつか必ず悲しい事実に突き当たると思います。正直、その個人が体験した苦しみや恨みっていうのは僕らでは伝えきれないんです。一生消えることがないですし、その人の一生が終わったからといって消えるものではない。そういう類いのものを僕は話し切れないから、でもその近くまでは少なくとも案内したいと…うまく言えませんが、だからまずはいろんな人の話を聞くという形をとっているのかなぁ〜…やっぱりうまく言えないです。周辺の声にこだわるのは、誰かしらが声を上げ続けている限り終わらないからだと思います。裁判はいつか終わるんですよ。でも井戸端レベルの話というのは終わりを知らないというか、ふだん着レベルで水俣病のことが話し続けられていれば、けっして途絶えることはない。ささやかな抵抗の一端は井戸端話レベルにあるのかなと思います。【水俣病を背負う責任】
草児
 自ら背負う感、仕事にしても僕がやっているんだと意識するようになったかな。それまでは勝手に背負わされていると決めつけている節が自分の中にあったのですが。
鼓子
 私は父親から、君は水俣病のことを何も背負わなくていいんだよとはっきり言われました。君に水俣病の責任は何もないからねと言われて。でも私は水俣病のことを知りたくて調べていて父にどんどん質問するようになったとき、父にすごい嫌な顔されたんですよ。何でやってるのっていうような顔。自分がとても苦しかったことを娘がやろうとしたならば一度は止めようとしたのでは。【知ってしまったこととただ知るということを分けるものは何か?】
鼓子
 私の場合は友達とふつうに遊んで楽しく暮らした水俣生活18年だったのに、大人になってから、友達のおじさんが胎児性水俣病の患者さんだということを知ってしまった。それは資料からなんですけれど。友達はその話を一切しなかったし、水俣病の自分の家族の話はしなかった。これって何だったんだろう。友達の苦しみは何だったんだろうということを考えた。知ってしまった。でも友達とその話はしていない。何だろう…ようやく実感したという感じかな。友達がその話をしなかったことって…患者さんが家族にいるってどういうこと…その話ができないってどういうこと。友達が差別的な眼差しで患者を見ていたわけではないと思うけれど、話せないことは本当に苦しいだろうなと…
草児
 『ぐるりのこと』っていう映画があって、ぐるりというのは自分が手を伸ばせてつかむことのできる範囲のこと。その中に入る人はわずかだと思うんです。一生かけて一人の人間と関係することができたらそれで精一杯だと思います。きっとその琴線に触れたのでしょう。友達のことをもっと知りたい、じゃないけど。
鼓子
 そのとき急に思い出したんです。中学校のとき、そういえばその友達と水俣病の話を一回だけしたことがあったと。そのとき友達は、「つー(鼓子)のお父さんが書いたものが一番水俣病のことをわかりやすく教えてくれた」と言ってくれました。私は当時、父の文章を読んでなかったのでポカンとしてしまったことを思い出しました。後になって調べたら、その友達のおじいちゃんは水俣病の患者団体の委員長をしていた人で、うちの父と一緒に活動していたんですよね。私が知らなかっただけなんですよ。
草児
 水俣病というものを通じてその人との関係性が一歩違う方向に進むことができる。のさりって表現したりもしますけど。ありがたいということなのかな。
 

諸般の事情により、2020年3 月14日(土)に実施を予定していた第14回エチカ福島を中止とします。


当日、大西監督を招いてのイベントは中止になりますが、映画『水になった村』そのものは(2/29日現在)フォーラム福島での上映が予定されています。

3/14(土)も通常の上映となりますのでご了承ください。


なお、実際の上映期間、上映時間についてはフォーラム福島のHPでご確認くださいますようお願いします。


エチカ福島14回目で初めての中止は大変残念です。しかし、映画上映に止まらず長時間に渡る限定空間での総合トークイベントとなるため、参加を予定されていた方には大変申し訳ありませんが、今回は実施を見合わせることとなりました。ご了承ください。

(以上)




(一部改訂しました。2019/10/29


第13回エチカ福島を開催します。


【テーマ】「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」

【ゲスト講師】
      佐藤弥右衛門さん(会津電力)
      山内明美さん(宮城教育大学)

【日 時】11月23日(土)14:00〜17:00    
再生可能エネルギー体験学習施設(雄国大學
【会 場】(喜多方市熊倉町新合字休石地内) 

【申 込】 自由参加ですが、できればコメントなどで参加の旨お知らせいただければ幸いです。

【参加費】見学料は1,000円 
     (ただしエチカ福島が負担しますの寺実質無料です)
【開催趣旨】
 「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を問うてきたが、大きく二つの系列に分けられる。一つは、震災・原発事故の被害にあったフクシマに生きる者として、私たちはそれをどうとらえ、その状況の中でどう生きて行けばいいのかを問うという系列である。もう一つは、私たちのこれまでの生き方の選択こそが結果として原発事故を引き起こしたと考え、その生き方を問うという系列である。特に、奥只見は原発前史として電源開発が行われ、奇しくも原発事故の年の夏にダムの林立する只見川で洪水が発生し大きな被害を出した。その只見川流域の地域、特に過疎が深刻化する奥会津の現状を知りその未来を考えることで、私たちのこれからの生き方について考えようとするものである。
 奥会津は、水や森林震源をはじめとする自然資源はもちろんのこと、歴史的にも豊かで奥深い地域である。そこに巨大なダムが建設され、それが作り出す電気は日本の高度経済成長を支え続けた。奥只見は当初ダム建設とダム関連予算によって栄えたが、やがて電源開発はダム発電から原発にシフトすることでそれは終焉をむかえる。奥会津に林立するダムは今でも稼働を続けるが、豊かな自然と引きかえにして得た経済的恩恵は先細りし、人々は奥只見を離れ過疎化は深刻な局面をむかえている。このことは奥只見に限った話ではない。このまま市場主義を貫徹すれば、奥只見をはじめとする日本の多くの地方を根こそぎにしてしまうだろう。
 奥会津の過去を問うことは、実は私たちの今までの生き方を問うことである。奥会津の未来を問うことは私たちのこれからの生き方を問うことである。私たちはこれまで何を選び何を捨ててきたのか。私たちはこれから何をたいせつなものとして守らなければならないのだろうか。
 今回の「エチカ福島」は、佐藤弥右衛門氏と山内明美氏をお招きし、それぞれ「電力の自立と地方の自立」「地域自治と福島の発電史」と題したお話をうかがう。

19/07/18
  
       高倉兄妹
 
     (不知火海に沈む夕日・2017年3月・渡部撮影)
エチカ福島のご案内です。
【テーマ】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか
【ゲスト】高倉草児さん・高倉鼓子さん(ガイアみなまた
【日 時】8月17日(土)13:30〜17:00    
【会 場】 福島市民サポートセンター3階・多目的ホール
【申 込】 特に申し込みは必要ありません。
【参加費】資料代100円(学生無料)
【主 催】エチカ福島
【開催趣旨】
過酷な公害事件を子ども世代はどのように見、考えたのだろうか。それに対して、大人たちはどのような姿を見せてきたのだろうか。
原発事故という未曽有の公害事件を経験した私たちにとって、このような問いを避けてとおることはできません。
しかし、その問いに対する答えを見出すことはまだまだこれから先のことでしょう。
2020年の東京オリンピックとともに、さまざまな場面で子どもを出汁に「復興」物語を喧伝する大きな力もはたらくなか、あの出来事の教訓を次世代に伝えることは日増しに複雑化しています。
そこにおいて世代間の伝達はいかにして可能なのか。

このような問題意識から、第12回となるエチカ福島では、水俣市よりガイアみなまたの高倉草児さんと鼓子さん兄妹をお招きして、講話と参加者とのダイアローグを開催します。
ガイアみなまたは、70年代半ばから水俣病問題をきっかけとして水俣に定住し、被害者の社会運動を支援しつつ、水俣病患者運動の中で知り合うことができた被害者家族とともに、 農薬を減らした甘夏栽培(生産者グループ きばる)を始めた団体です。
草児さんと鼓子さんは、その家族のなかに生まれた第二世代です。
   
   (ガイアみなまたのミカン畑・2017年3月・渡部撮影)

実は、渡部は3年前にガイアみなまたで援農をさせてもらいながら、10日間ほど水俣に滞在する機会を得ました。
その際に、高倉さん一家をはじめとするガイアみなまたの皆さんには、多くの方々に出会わせていただきながら、水俣病事件をめぐるさまざまなお話を聞かせていただきました。
そのなかでもとりわけ興味を引いたのが、草児さんと鼓子さんのお話でした。
お二人は水俣病事件をめぐる社会運動家であった親もとで育ちながら、その運動や思想について教えられることはほとんどなく、高校卒業まで水俣病事件に関心もほとんどなかったというのです。
その二人は進学・就職とともに県外へ出た後に、いま水俣へ戻ってご両親の仕事を受け継いでいます。
それは、近代水俣という土地に生まれ育った彼らの、人生の「転回」というべきものだったのではないか。いったい、そこにどのような思考のプロセスがあったのか。お二人のお話を伺いながら、私は世代間の伝達というものにたいへん興味を抱かされたものです。

もちろん、このお二人の経験がすべての公害事件地域の第二世代に生じたものではないでしょう。
しかしながら、先行世代というものは、次世代への継承の重要性を訴えつつも、得てして自分たちの枠からはみ出していく可能性には気づけないものです。
しかし、その先行世代の期待と第二世代の受け止め方のズレから生じる化学反応は、世代間伝達における希望の可能性でもあるでしょう。
そのヒントを水俣事件の第二世代ともいうべきお二人をお招きしながら、「3.11」以後の福島における問題としてみなさんと一緒に考える機会とさせていただきます。(文:渡部 純〈エチカ福島共同代表〉)

第11回エチカ福島を開催します。

今回はカフェロゴとの共催です。

 

テーマは「原発事故八年後の沈黙を考える」

内容は映画『THE SILENT VOICES』の上映とゲストトーク、および会場での対話です。

 

日時は2019年3月9日(土)13:30〜17:00

会場は福島市市民サポートセンターA1・A2

参加費は資料代500円をちょうだいします(学生は無料)

 

開催趣旨は以下の通りです。

 

今回のエチカ福島で上映する映画『THE SILENT VOICES』は、フランス在住で福島出身の佐藤千穂氏とパートナーのルカ・リュの共同監督作品です。
3.11〉当時、フランスにいた佐藤監督は、日本の外から故郷の家族や友人・知人の健康を危惧していました。しかし、その年の夏に帰国して見た福島に棲む家族は彼女の想像とは異なりそれ以前と変わらない日常を過ごしていました。
 「なぜ、家族が放射能汚染を気に留めず毎日が送れるのか?」
 この問いを抱き2015年と2016年にかけて、二人は福島の撮影に入ります。
 そして、その過程で見たものは「放射能汚染がないようにふるまっている方が楽ということ」でした。しかし、同時に家族たちは放射能の問題については話題を避けます。
『THE SILENT VOICES』というタイトルには、この福島における沈黙、あるいは〈語りにくさ〉への問いが込められているのです。
 この二人の映画監督の問いと発見は、原発事故から8年を経てもなお、福島に生きる人々にとっては鉛のように重くのしかかるものでしょう。
 佐藤監督は

「見たくないものを見ることはとても辛い。同時に家族が見たくないものを見せるのもとても辛い」

と述べています。この言葉には本作品の誠実さと
繊細さがにじみ出ていますが、この思いを共有しながら私たちもまた原発事故から8年後の自己に向き合う機会にしたいと考えています。

エチカ福島第10回 「風化に抗う声をつむきだす」
−〈3.11〉の7年を問う−

を開催します。
日時:3月10日(土)13:30〜
場所:コラッセふくしま

 

第10回エチカ福島のFacebookイベントのページはこちらです。

https://www.facebook.com/events/932079010297959/

 

定期的に情報発信していきますので、ぜひ御覧ください。

 

第10回エチカ福島   


「風化」に抗う声をつむぎだす


  ―〈3.11〉の七年を問う―   


【開催日時】2018年3月10日(土)

      13:30〜17:00

【会 場】 コラッセ福島

     (福島駅西口徒歩3分)     

     http://www.corasse.com/


【趣 旨】

 東日本大震災・東電原発事故から7年が過ぎようとしていますが、この間、「風化」という言葉を何度も耳にしてきました。とりわけ、震災・原発事故をめぐる個々の経験や記憶を置き去りにしながら進められる「復興」に「風化」を感じる人は少なくありません。

 避難指示解除や住宅支援打ち切りによって存在を消されかけている「強制/自主避難者」にとって、「復興」とは存在そのものの「風化」に等しい言葉かもしれません。

 他方、避難せずに居住地に留まる選択したものや避難先から帰還したものの中には、それぞれの選択で生じた苦しさや葛藤に折り合いがつかないまま進められる「復興」に、違和感以上のものを覚えるという声も耳にします。

 その意味で「復興」は、その速度に自らの被災経験や記憶の言葉が追いつかないものにとって暴力的でさえあるのです。そして、いま必要なことは、猛スピードで進められる「復興」という大きな物語によって「風化」にさらされる小さな声を、それぞれの立場から丁寧に紡ぎ出していくことではないでしょうか。

 第10回となるエチカ福島では、原発事故によって富岡町からの強制避難を経験しながら、今年3月の同町の避難指示解除によって「避難者」という存在が抹消されることに抗う市村高志さんと、歴史社会学者として「3.11」の様々な問題について研究・発言されている山内明美さんをお招きし、避難・帰還・残留という様々な観点から「風化」に抗う声を共有できる可能性を探っていきたいと思います。


【講師】

 市村高志さん


(NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク)


 3.11の震災と原発事故により福島県富岡町から東京都に避難している。現在は「NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク」の理事長。震災時は富岡町立富岡第二小学校PTA会長をしていた。共著に山下祐介・市村高志・佐藤彰彦 『人間なき復興──原発避難と国民の「不理解」をめぐって』(明石書店),論考に「私たちに何があったのか」(青土社『現代思想』2013年3月号)など。


【講師】

 山内明美さん


(大正大学特命准教授・歴史社会学)


 日本近代の稲作言説とナショナリズムの関係性について、とりわけ東北地方をフィールドに研究しながら、日本の近代化と地方の在り様について旧植民地地域も包含しながら研究している。著書に、『子ども東北学』(イーストプレス)『「東北」再生』(イーストプレス)『「辺境」からはじまる―東京/東北論』(明石書店)など。