柄谷行人の『哲学の起源』が、雑誌「atプラス」15号で特集されている。
巻頭の対談は國分功一郎さんと柄谷氏本人。

きわめて興味深い特集である。
ぜひ『哲学の起源』本編は直接読んでいただければ、と思うが、メチャメチャ早わかり的に言えば、

民主主義をさかのぼるとギリシャにたどり着く。しかし、ギリシャの民主主義は奴隷制度と植民地支配を前提としていたものであり、むしろそういう前提を持たないギリシャ以前のイオニアに、自由と平等の哲学が参照され得る。それを「イソノミア(無支配)」と呼び、ギリシャを源流とする「民主主義」の問題点を洗い出す……

っていう流れです。
まあ、早わかりですから異議は受け付けません(笑)。

くわしくは本編と雑誌はを読んでください。

私は本編も特集もとてもおもしろく読みました。

学者ではない柄谷氏は、イオニアに対して(ソクラテスに対してもそうですが)、「可能的表現」においてほとんど虚構に近いイオニア像を紡ぎ出す。
イオニアはこうだった、ピュタゴラスはこういう人だった、ソクラテスは……と次々にほとんど「掟破り」の描写を重ねていくのである。

そのあたりの事情は、知人に教えていただいたこのサイトの解説が秀逸。

ぜひ参照をされたい。

ブログ「世界史の扉を開けると」
柄谷行人『哲学の起源』について1・2

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130217/1361065937

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130222/1361537378

ごらんになりましたか?
さて、このブログを読むと(ブログ子は歴史の専門家かとお見受けします)、そうかあ、そりゃ「乱暴」な話だわなあ、と納得できる。


atプラスの論文、とくに

納豊信留「古代ギリシアと向き合う」
大竹弘二「イソノミアの名、民主主義の名」

では、とくに歴史的な研究、哲学的な説明が参照されていて、とても勉強になった。


柄谷氏の求めるユートピアをイオニアに投影したもの、という指摘は、おそらく半ば以上確かなものと思われる。

つまり、「使用上の注意をよく読んでください」ってことだろう。

お願いだから、『哲学の起源』を読んだぐらいで、「やっぱりギリシャっ=民主主義ってのはだめだよなあ、イソノミアってのはさあ」とかしゃべらないでください的な老婆心も端々に感じられる。

「柄谷行人の本をとんでも本として読まないために」
という副題をつけてもいいぐらいだ。

柄谷行人という「おじいちゃん」の拾い方、を学ぶために、私のような素人には、この特集は必読でした。

柄谷行人の「イソノミア」を丁寧に拾っている國分功一郎氏の相づちの中にも、「柄谷行人の使い方」に対する「教育的配慮」が随所に表れている。

ただひとつだけ、書いておきたいのは、この特集の原稿が刺激的なのは、『哲学の起源』が「とんでも本」だからではなく、さまざまな学的ジャンプや曲解と見えかねないことを百も承知で、なお柄谷行人は遺言のようにこの作品を書いている、というところだ。

遺言というのは、それを自分自身では「行為」できないものだろう。
しかし、可能的行為としてそれは未来に向かって書かれるほかない。

そして、その未来に向かって書かれた可能的行為は、「痕跡としての」ユートピアを過去に発見し、それを称揚しているかに見えてしまう。
年をとって脳味噌がとろけたか、みたいな。

私たちはしかし、柄谷行人のこの仕事が意義なき「空想」や「幻想」だとは決して思わないだろう。こういう試みは、どうひっくり返っても、学者にはできない。

個人的なことに引きつけて言うのは気が引けるけれど、牽強付会はいつ出しても同じなのだから敢えていってしまえば、3.11以後のこの世界では、

「学問的にいえることといえないこと」を峻別することの重要性はさらに高まっている。

と同時に、「学問的には語り得ないこと」に沈黙する学者の良心は、この「現場で生きる力」とするには、正直それだけちゃ決定的に足りないとも考ずにはいられなくなった。

限られた知見に基づき誠実に無矛盾な世界像を積み重ねていく学問の理性的価値だけでは、生きるエンジンにはならない。

だって、学者たちだって官僚や企業とともに「ムラ」を形成していたわけだしね。ジャンルは違うし、原発とちがって哲学はお金にはならないけれど、だからといって「学会的」ギルドによる「とんでもな発想」を抑制する働きは、いつもプラスに働くわけではない、ということだ。

だからこそ、柄谷行人の言説を、「空想」や「幻想」とならべて語ってしまう「学者的言説」について、「卑怯者」と石川淳の小説に登場する女たちのように、なじってみたくもなるのです。

國分功一郎氏が冒頭指摘しているように、ハイデッガーの営為に触れながら
「確かにハイデッガーの読みには強引なところがあります。ただそこには圧倒的な魅力があることも確かではないでしょうか。」
とした上で、『哲学の起源』にも、ハイデッガーを突き動かしていたような強烈なパースペクティヴがあった、といのべる。
私たちは、そこにこそ強い「時代精神」に基づいた共感を覚えるのであって、ありもしないユートピアの幻想を共有して安心したいわけではあるまい。

繰り返すが、学者さんたちの指摘を無視して柄谷行人だけを参照する輩が大量発生するのはちょっと、という感じは分かる。

でも、学問の精確さだけが、その理性的使用だけが、世界を生きる「知性」として必要十分なわけではない。

こういう思考=試行こそが、私たちを勇気づけ、世界の見方を更新していくのではないか。


本編と雑誌、セットでお勧めする所以である。
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