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高橋哲哉さん講演(エチカ福島第3回セミナーより)
のメモです。
例によって個人的なノートにすぎません。
間違いを含んでいますので、あくまで個人的なメモとして。

せひ、後ほどupされる佐藤先生の講演、その後のお二人の対談、そして海上とのやりとりとあわせてご覧ください。

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個人的なことから始めたい。
「原発事故は日本社会を変えたか」
というテーマについて、私はずっとこの問いを持ち続けている。3.11のとき
「もしかしたら変わるかもしれない」
と思った。福島県全体が無くなってしまうかもしれない。いや、日本がつぶれてしまうかもしれないという恐怖があった。

日本社会が変わらざるを得ないのではないか?

菅直人が、当時首都圏3000万人の避難をシミュレートしていた。しかしそんなことはできない。国としての機能が麻痺してしまう。背筋が凍った、述懐している。

(そういうことをふまえてみれば)

変わる可能性があった。

その後、政府、東電の記者会見をみると、うまくいっていない。どうにもコントロールできていないにも関わらず、「直ちに影響はありません」とか、事実と違う話がでてくる。

安全神話があったが、いや神話ではなく、大丈夫だといわれていたが結局

「原発は安全だ」
「絶対事故は起こらない」

が嘘だったんだな!
ということが誰の目にも明らかになった。国民に嘘をついていた。いよいよ日本が変わるんだな、変わるんじゃないかな、とおもった。

しかし。

私自身、3.11以前はやはりつきつめて考えてはいなかった。安全神話を信じてはいなかったが、油断していた。
これは脱原発だ、と思った。本を書いた。
実際、2030年代には原発ゼロということが政府の方針にも入った。

しかし、今トルコ・インド・ベトナムなどに原発を輸出入し、再稼働を認め、2030年度の原発ゼロを白紙撤回し、増設さえ認められるということになろうとしている。
また、3.11直後、今回の悲劇にもかかわらず、経産相内部では、原発維持の文書を作っていたことが明らかになった。

本当に原発は犠牲のシステムだな、と思う。

第一に作業者の被爆の問題がある。
十万年間危険な物質を扱わねばならない。

にもかかわらず従前通り増設まで認めるという。

これは政府に「福島は犬死に」だったと宣言されたといっていい。
そういう意味ではエチカ福島の第3回テーマ設定趣旨に賛同する。

絶望・あきらめがひろがる。
怒りはあるがしかしどうしようもない。

こういう状況がある。生まれた土地のことでもあり、他人事ではなく分かる。

しかしですね。

これであきらめてしまうとしたら

「あきらめが早すぎる」

あきらめてはいけない。

「少なくても私はあきらめない」

最後は一人一人が問われる。

ここであきらめるかあきらめないかは、
「日本社会への希望」
の問題です。

ここで、社会と国家が必ずしもイコールではないことを指摘しておきたい。


しかし、日本では、政策を進める「国家」の政治によって「社会」が受ける影響が欧米に比べてつよい。

(注:市民社会としての「社会」の力が弱い、ということか)

(国家に対して社会が弱いと言うことでは)
農村部が弱いようにも見えるが、都市部でも大して変わらない。

つまり、社会が国によって支配されてしまう、ということ。

国が変わらないといけない。

「あきらめるのはまだ早い」

実は、社会が変わるかも、と思ったのは初めてではない。

初めて社会が変わるかも、と思ったのは中学校三年生の頃。

「憲法と違うようにこの国は動いているんじゃないか」

とおもった。

国民主権・基本的人権・平和主義

という3つの原則からズレている。

一つには選挙の時結局「お金」「利益誘導(田中角栄が典型例)」で動いている。
もう一つはかつての敗戦に至るまでの政治家の認識。当時は(憲法に反する)モンダイハツゲンで閣僚が辞職した(今はもう違うが)。

なんでこんな変なことをいう人がいるんだろう?
しかしこれはまだ新憲法になって時間が経っていないからいずれ時間が経てば変わるだろう、と思った。そのことをよく覚えている。

しかし、変わらなかった。

二つ目は1990年、従軍慰安婦の肩書き名乗り出た。この時も変わる、と思った。私は生き証人が出てきたんだから、もうおかしな発言はなくなるのではないか
。日本は戦争責任についてはっきりしなければならないのではないか、と思った。

そのときは逆の展開になりましたが。

三度目は、政権交代のとき。
沖縄問題、対米従属の見直しなど、国民の多くが自民党を見限った。
これで日本は変わるかもしれない、と思った。

しかし、結果はご存じの通り。

要するに何が言いたいかというと、

「日本社会は、なかなか変わらない、変わりにくい国だ」

ということ。

90年代にバックラッシュがあった。それは歴史問題。

到底黙っていられない、と思った。
もちろん自分一人に何が出来るか?
(ということはある、しかし)
自分で言えることを言っていこう、社会を、国を変えることにはならないかもしれないけれども、変えたいと思ったらやろう。
そう思ってやってきた。

そういうふうにしてから20年、日本は最悪の状態だと思う。

ただ、にもかかわらず、あきらめない、と申しましたし、あきらめるべきではない。

(確かに)社会を、国を変えようとする力が弱い。それは、いろいろあるが、たとえば

福島を例にとれば、想像を絶するものがあっただろう。悩み、苦しみ、不安、いろんな形でそれぞれに苦しい時間を過ごしてこなければならなかった。
それはよーーーーーく分かるんです。

けれども、福島はこの事故を経験することによって

「責任を負ってしまった」

とも思う。

原発とは何か?
誘致はどんな問題を含んでいるのか?
事故が起こったらどうなるのか?

福島の証言者として、日本に、世界に責任を負っている。極端な言い方をすれば、使命を負わされた、ということでもある。

もし
「東京にいてきれいごとをいうな」
という方がいらっしゃったら、あとでいってくださいね。

いずれにしてもチェルノブイリ級の世界史的な事故が起こってしまった。

まず、健康に生き延びること、これが一番です。
そして次には

ふりかかってきた問題について

社会化・世界化・普遍化

する責任を背負った。


今回の趣意書P2の下にはいろいろ考えさせられる。

「無関心」「政府もしてくれない」
「自分に何が出来るんだろう」「無力感におちいる」

では自分はこの二年間何をしてきたのか。
大変な状況ではあった。それは確かにそうだ。

しかし日常に戻ってきた。
もしそうだとすれば何かできることはないのか?

むしろここから始めることがあるんじゃないか。

(私は)『犠牲のシステム福島県 沖縄』という本を書いた。
「犠牲のシステム」とはどういうことか。

戦後の沖縄は在日米軍基地を日米安保体制(最近は日米同盟と呼ばれているが)の下で負担してきた。おかげで平和だった、と考えてきたが、沖縄はスケープゴート(犠牲の羊)になってきた。責任を沖縄に背負わせてきた。

国土の0.6%の沖縄に、全基地の74.8%が置かれている。

アメリカと日本政府の判断でそうなった。沖縄戦て20万人が死んだ。、もっとも厳しい戦闘の末、結果としては切り捨てられた。(つまり)アメリカに占領され、それ以後、サンフランシスコ条約で施政権をアメリカに渡した。
その後、本土並の復帰を希望したが、本質的には変わらないまま今日にきた。
本土が受けるべき負担を沖縄が負担するその事実を日本人(ほとんどが本土の人)は8割肯定している。沖縄で支持しているのは10〜20%。

そういう場所に置かれている。これが不平等だ、差別だ、という考えが(沖縄において)強くなっている。

今世界で一番危険な基地である普天間を本土に移設して欲しい、と41町村長は、首長・議会ともに、総てが賛成し、建白書として政府に手渡した。
県外移設希望と、それからオスプレイ配備反対ですね。

安倍政権は一顧だにせず、辺野古移設しようとしている。
今この年末、ものすごい圧力が沖縄にかけられている。
今年、「沖縄独立学会」が立ち上がった。

なぜ沖縄の話をしているのかというと、県がまるごと憲法の人権から疎外されているのは、沖縄と福島だ。

もちろん全国的に人権は疎外されているが、沖縄と福島は憲法番外地だ。

沖縄ばかり70年続いている。
それでも、あきらめてはいない。
絶望しているかもしれないが。

福島県の首長と議会が全て政府につきつけたらどうだろうか。

訴える方策かといってもわからないという話もあった。確かに簡単には変わらない。
日本は本当に変わらない。

しかし、あきらめたら終わり。

あきらめるには早すぎる。沖縄は70年間も闘ってきていますよ。
率直にそう思っている。少しでも国を、社会を変える方向に考えるべきではないかと思うのです。

あきらめてしまえばそれで終わり。
自民党の憲法草案をみると、本当に変わらないな、と思う。

けれども、そこまで行かれてしまうと大変。

絶望・あきらめは、全部ジブンノウンメイヲ政治ににぎられてしまうことになる。
政治に無関心になることは政治に依存することになってしまう。安倍に任せればどんどん進めてしまう。

無関心は依存だ。

ヤスパースがドイツの敗戦後にドイツ人として自らの罪を考えた。

罪の問題は

1刑法上の罪→裁判で問われる
2政治上の罪→政府を作り出した国民の集合的罪
3道徳上の罪→1,2には中らないが相互批判するべき罪
4形而上の罪→人間の判断を超えた、神の前で問われる罪

政治的な罪について、為政者のやったことに国民に責任があるということについての反論に答えて、ヤスパースは再反論して言っている。


「近代国家においては、埒外ということはない」

知らなかったといっても、山奥にこもって修行していた、といっても、国のシステムと無関係ではありえないということだ。

今の日本社会で国の政策と無関係に生きている人はいないでしょう。
なにも日本を強調するつもりは無いけれども、日本の有権者として、責任がないとはいえない。

(以上)





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