エチカ福島の第3回セミナーを下記の通り開催します。
アーレントの専門家で訳書があり、ジェンダー研究のご著書もある佐藤和夫先生と、デリダ研究、戦後責任論などをご専門とされる高橋哲哉先生をお迎えし、
「原発事故は日本社会をかえたか?」というテーマで、じっくり講演・対談・会場との討議を行います。
どなたでも参加できます。






 
【エチカ福島第3回セミナー開催のご案内】(改訂版)

福島の仲間たちと企画して立ち上げた団体です。
活動目的は、3.11以後に福島からしか立ち上がらないエチカ=倫理を、各分野で活躍される知識人を招きながら、聴衆も巻き込んで討議を行うセミナーの開催です。
講師のお二人は研究の最先端をゆく哲学者です。
ぜひ、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

【開催日時】 12月21日(土)13:00〜17:15
【場所】 桜の聖母短期大学の講義室(をお借りする予定)
【テーマ】「原発事故は日本社会を変えたか?」
        ―社会を変える/社会が変わることへの哲学的探究―
【講師】 佐藤和夫先生(千葉大学名誉教授・哲学・アーレント研究・ジェンダー研究など)
     高橋哲哉先生(東京大学教授・哲学・デリダ研究・戦後責任論・記憶論など)

【タイムスケジュール】  
1.開会―エチカ福島とは― 13:00〜
2.第3回テーマの趣旨説明(渡部純) 〜13:15 
3.高橋哲哉 先生 60分 13:15〜14:15
  10分休憩
4.佐藤和夫 先生 60分 14:25〜15:25
  10分休憩
5.佐藤―高橋の対談40分 15:35〜16:15
6.会場との討議 60分 〜17:15
7.閉会 17:15

☆会場は桜の聖母短期大学をお借りできることになりそうです。
☆資料代として500円ちょうだいします。
☆会場は200人以上収容できる場所を、と考えています。事前の申し込みは要りません。
☆駐車場には限りがあります。ぜひ市内循環バスの利用をお願いします。

 
「エチカ福島」設立趣意書です。
3バージョンあります(笑)

バージョン1(ロング版)
1 命名の由来と立ち上げの原点
 一般に倫理と訳される「エチカ」の語源は、ギリシャ語の「エートス」、「住み処」という意味である。が、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故後の福島県民には、これまでの生活の延長上としての「住み処」はないと言っても過言ではない。私の住むいわき市には双葉町役場が置かれ、多くの仮設住宅が並んでいる。その一方で車で2時間ほどの富岡町夜ノ森など未だに無人の場所もある。その中で最も心的ダメージを受けているのは、子どもたちではないだろうかと考えた島貫は、事故後に再開した勤務高で「大震災の中で」をタイトルに作文を書かせた。ありえない惨状に対する言いようの無い恐怖がなまなましく描かれるその一方で、彼らは大地震と大津波という自然災害と放射能汚染という人為的災害の両方に真剣に向き合っているとも感じた。
「原発が、福島県をうるおしてきたのも事実で、今苦しめているのも事実である。結局苦しめられているのは地元の人なのだ。これからは、原発だけではなく、何か違う方法で発電しなければならない。また、そのためには日本人の生活を変えていかなければならない。私達の今の生活は豊かで便利かもしれない。しかし、それを追い求め電気をいっぱい使い、資源を追い求めていく生活はきっと日本の将来をだめにしていく。今回の原発の事故は、東電の対策不足もあるけれど、私は日本人全員が引き起こしたものであると思う。節電と騒がれてる今、電気が無いなら、無いなりに人は生活していける。無いなら無いなりの生活がある。もう二度とこのような事故を起こさないために、私たちの生活から変えなければならない。」(生徒作文より)
 この子どもたちの叫びに応え、大人としての責任を果たしたいと心底思ったことが、「エチカ 福島」設立の原点となった。

2 「エチカ 福島」設立とその目的
 福島県の高校教師3名(島貫・深瀬・渡部)に小学校教師1名(荒川)が発起人となり、活動を開始することにした。私たちが目指すものは今日の現実を何とかしようとする政治的なそれとは異なり、明日の福島復興を目指す者の価値観や考え方の探求であったので、最初の活動にあたって高崎経済大学准教授の國分功一郎先生に第1回セミナーの講師をお願いした。國分氏はスピノザの研究者である。スピノザの唱える「神即自然」(自然の摂理も人間の営みもこの世界の理法=神の内にあるという考え方)が今の福島には最も必要な考え方ではないかと感じたからだ。先生は「福島に行くことは哲学者の使命です」と言われ、講座の後はスタッフとともに福島市の洋食店オーナー、相馬市漁協職員、岩瀬地区のいちご生産農家とも意見を交換した。
 エチカ(倫理)は高校や大学の中でのみ育つものではない。今なお福島に生活する者は誰もが苦しい現実の狭間でもがいているが、現実のとらえ方もその中でのもがき方も人それぞれである。それ故に福島には人々を隔てる様々な分断線が走っているのも事実である。しかし福島で起こっている全てのことは普遍的な出来事である。したがって全ての人は福島に対して傍観者ではあり得ない。福島に関わる者が互いに異なる立場から情報を発信し、意見を交流させる中に私たちの倫理が育つのだと信ずる。倫理の「倫」は「ともがら」、「理」は「ことわり」とも読む。福島に生きる者として、仲間と共に、あるいは他者と共に生きるための新しい「理」を、多くの人々との意見の交流の中で追究したい、これが、「エチカ 福島」設立の目的である。

3具体的な活動
エチカ福島の活動は、定期的なセミナーを、人々の参加のもとに開催しつつ、さらに多くの人々への問いかけとしてその記録集を出版したい。


バージョン2
(第2回セミナーフライヤー用バージョン)
震災から二年。
福島はいまだに数え切れないほどの困難を抱えています。
「絆とかいってっけど簡単には一つにならんに」
「結局何も、考えてませんでした、では100年後の福島人に笑われっつぉ」
結論はいつも堂々巡り。
でも、今こそ生きることの意味を根本から見つめ直す好機かもしれない、私たちはそう考えます。
自由に人が集い、「異なった考え」をあーでもないこーでもないと言い合いながら、なお共通の「倫理」について、講師の人も交えて「一緒に考える」……そんな「広場」のようでありたい、と考えて活動を始めました。
6/22(土)福島県立美術館でみなさんをお待ちしています。

バージョン3(ショート版)
今福島に生活する者は誰もが苦しい現実の狭間でもがいている。その捉え方やもがき方は人それぞれであり、互いに人々を隔てる様々な分断線が走ってもいる。
しかし同時に、福島で起こっている全ては普遍的な出来事であり、人は誰も福島に対して傍観者ではあり得まい。
私たちには、福島=世界の住民として「エチカ(住処を同じくする者たちが共有すべき道理)」を問い続ける責務がある。そして「エチカ」は、福島に関わろうとする者全てが、多様な立場から意見を交流させることで、初めて育つのだと信じる。公開セミナーと出版活動を粘り強く続けていきたい。

「エチカ福島」第2回セミナーによせて
(共同代表深瀬)
その1

エチカ福島、という勉強会があります。第1回目は今年の二月に開催しました。その時は今を時めく國分功一郎さんに来ていただきました。エチカ福島の仲間が、お願いしたところ、行きますとすぐに答えられたそうです。仲間によると、福島でそこに生きるためのエチカを問おうとする勉強会に出るのは、哲学徒である自分の義務であるということを話されたそうです。僕はその話を聞いて泣きそうになりました。
第2回エチカは、6月22日の1時から、福島県立美術館の講堂で開催します。今度のメインは、新潟大の丹治嘉彦さんです。丹治さんには前回序説をしていただきました。彼は新潟その他の多くのアートプロジェクトに、作家としてはもちろんプロデューサーとして関わって来られました。彼は福島市出身で、実は僕とは高校の時以来の友人ですが、エチカ福島の話をしたところ、國分さんと同じように、是非参加したいと言って下さいました。彼は、例えば、妻有で行われているアートプロジェクトに長期的に関わり、新潟の過疎化と高齢化が進む新潟の中山間地域の人々と自然、そこから紡ぎ出される生活に寄り添いたいと願いつつアート活動を行っておられます。福島は、原発事故以前から新潟同様に中山間地域の過疎化は深刻な問題でした。安部首相は、TPPで農業に活力を、と言っていますが、彼の視野には耕作面積が狭く、棚田と呼ばれる工夫をしながら辛うじて農作を行ってきたこのような地域は全く映ってはいません。これから中山間地域の過疎化はさらに加速し荒廃して行くでしょう。棚田という工夫は手間がかかります。特に雪国では棚田は土砂が崩れやすいから常時棚田は修繕しなければならない。人の手がなければあっという間に荒れてしまう。
福島は目に見えない放射能によって美しかった自然は汚されてしまった。故郷から強制的に出させられた人々、故郷を去らざるを得なかった人々、故郷に残りながら不安な毎日を送っている人々、福島にはたくさんの分断線が入っています。人々の心を隔てる分断線です。
僕たちは、そういう福島で、僕たちの、共に生きるためのエチカについて考えたいのです。
丹治さんには、アートで人とつながる、ということについて話していただきます。それは福島におけるアートプロジェクトの可能性を語ることにもなると思います。
後半は丹治さんの問題提起をうけて、質疑応答を含めたセッションに1時間半程度を予定しています。
ちなみに、丹治さんの問題提起の前に、僕が第1回エチカから第2回エチカへの流れについて、自然と人間の関わりとしての技術に焦点をあてて少し喋ります。

(下記URLはFacebookに飛びます)
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=265946730217682&id=100004070714663


「エチカ福島」第2回セミナーによせて
(共同代表深瀬)
その2

深瀬 幸一
10分前 ?
昨日の続きですが、丹治さんが作家として参加した瀬戸内を舞台にしたアートプロジェクトの映像を見せてもらったことがあります。別な作家ですが、大島という、ハンセン病の隔離が行われた島で行われたプロジェクトについて知った時に、僕は胸を突かれたように感じました。そこは多くのハンセン病の患者が暮らす完全に隔離された場所でした。彼らには人としての権利は与えられてはいませんでした。僕は今、ずいぶん曖昧な日本語を使いました。彼らから権利を剥奪した主体を明示しなかったのです。
彼らがかつて生活のために使った用品を丹念に集めて展示してある部屋があります。金属製の生活用品は、一部だけがピカピカに磨き上げられています。彼らの使った生活用品は、彼らの人としての存在を偲ぶよすがです。しかし、磨き上げられた部分には、ここを訪れる僕らの姿が映し出されます。そこに映るのは、彼らと、彼らから人間の権利や誇りを奪い取ってきた主体としての自分です。直接的に手をくださなかったことは、その責任を免れる理由にはならない。そういう理屈以上に、大島という場所で、使われた道具に映し出される自分の姿を見ることによって事実は明るみに出されるのではないでしょうか。
さて、僕は、前回のエチカで、僕たちの責任を問う、というテーマで問題提起をしました。このことについてはこれからも問い続けなければならない問題です。第3回以降に改めて論じたいと思っています。



(下記URLはFacebookに飛びます)
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=266160313529657&id=100004070714663

「エチカ福島」の第2回セミナーが開催されます。
日時:6/22(土)13:00〜
場所:福島県立美術館講堂
内容:「アートでつながるってなんだろう」
問題提起:
深瀬幸一(橘高校)
丹治嘉彦先生(新潟大学)

☆問題提起の後、90分、ゆっくりお互いに話をするがあります。
☆資料代500円ですが、美術館の常設展チケット付きです。



 
「エチカ福島」第2回セミナー開催のお知らせです。


人間と自然の関わりにおける技術・アートについて考えるという問題提起のもと、

たくさんのアートプロジェクトを手がけ、地域とアートの関わりについて実践=研究しておられる

 新潟大学の丹治嘉彦先生

をお招きし

「これからのアートの話をしよう」

というテーマで「エチカ福島」第2回セミナーを開催します。


日時
  2013年6月22日(土)13:00〜16:00

場所 
  福島県立美術館

内容
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 1,技術という、人間と自然との関わり 
                                         橘高校 深瀬幸一 

  人間と自然の関わりとしてのアートと技術について

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 2,アートとは何か、アートに何ができるか 
                                   新潟大学 丹治嘉彦 先生
   

 新潟におけるアートプロジェクトの実践から

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 3,意見交換会 

   アートプロジェクトがもたらすものとは?

   アートプロジェクトと「芸術」との違いは?

   原子力という技術とアートの関連

   福島におけるアートプロジェクトの可能性と意義

   などなど
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資料代 500円(常設展チケット付き)


アートに興味のある方も、地域プロジェクトに関心をお持ちの方も、そして福島の「今」をじっくり考たい方も、梅雨時の午後のひととき、よろしかったらいらしてみてください。



 いわきの隔週紙「日々の新聞」の取材を受けました。


2013.4.30「日々の新聞」PERSONA欄


画像拡大はこちら

http://pub.ne.jp/foxydog/image/user/1367194898.jpg



「エチカ福島」の第2回セミナーは6月22日(土)を予定。

新潟大学教授の丹治嘉彦先生をお招きして、地域とアートの関係を模索しながら、幅広い芸術活動をプロジェクトとして続けておられるその実践についてお話いただきます。
また、共同代表の深瀬からは、技術論についての報告もあります。

技術とアート。それは人と自然が技術というかその営みにおいて出会うことでもありますし、同時に人と人とがそのことによって結ばれていく仕組み、とも考えられます。

エチカ(倫理)を考えていく時に大切なのは、具体的な人と人との出会いとつながりだと感じています。
時間軸を越えてつながるためには活字メディアが大切ですが、空間を共有して、そこで人と人とが出会い、小さなところから緩やかにつながっていくことがまずは基本。

そういう意味で「エチカ福島」自体も出会いの場でありたいと考えていますが、今回のテーマである技術と芸術もまた、根底から「倫理」を考える一連の営みの一つとしてとらえることができるのではないでしょうか。

みなさんのお越しをお待ちしております。

あ、ただ、まだ場所が決まっていません(笑)。

連休明けに詳細をまたお知らせします。
ときどきチェックをいただければ幸いです。


高橋源一郎の文章について書いたあと、「エチカ福島」の共同代表からFacebookにコメントが届いた。

引用開始

朝、この記事を読んだ時、真っ先に僕らがエチカ福島をやる所以だねって伝えたかった。
あまり大きな声で言うと笑われるけど、真っ当にものを感じ考える人間どうしの共鳴をここでも感じた。こういう経験は、それとは全く逆の経験と同じくらい、震災以来少なくないと思う。
日本は戦後を経験して、何も変わらなかった部分は確かにあるが、深く変わった部分もあり、丸山真男などの優れた知性とテクストにふれた者は、明らかにそれを受け継いだのではないか。僕でさえ、その末端にいる実感がある。今の日本はこんなに状況で、まさにご案内の通りのていたらくだが、もしかしたら今度こそ、っていう希望もある。何てったって、僕らまでもがこんなプロジェクトを立ち上げるんだもの。カフェふくしまもそうだけど、いままでここになかったものが生まれたわけだから。

引用終了

また、日記ブログに私も次のように書き足していた。

引用開始------
本日付の朝日新聞に載っている高橋源一郎の文章
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303270662.html
について
「エチカ福島」に書きました。
よろしかったら参照を。

高橋源一郎「忘れさせる『力』に逆らう」を読む
http://kitsuneinu.jugem.jp/?eid=520

で、以下はそれについてまた考えたことを少し。
そこでは
「地べたに裸足で立って一から考えよう」
という意味のことを書いた。

しかしこれは、思いつくだけでも二つの間違った方向性を招きやすい。

一つは
「大震災&原発事故」経験の絶対化

もうひとつは
「リセット願望」「ガラガラポン願望」

だ。
どちらもつい個人的に陥りがちで、どちらもやばい。

前者の場合、被災地にいる人の中でも「ディバイド(分割・分断)」が起こりかねない。
大きなところでは
「フクシマ住民/それ以外の人」
という分断を生むし、小さいところでは
「線量の高いお隣/線量の低いうち」
みたいなちっちゃな分割線を引かせる力になってしまう。

震災の体験、原発事故の体験は極めて重要だが、それを時間軸から外して絶対化するだけではちょっとまずい。

他方
「リセット願望」
についていえば、それ自体としては健全な適応力の発揮でもあるのだろう。
けれど、高橋源一郎が今日の文章でも言っていたようにそれは容易に「忘却装置」と「経済的」「政治的」に結びついてしまう。

「エチカ福島」でやりたいのは、そのどちらでもない。

人が集い住むという営為の原点(そんなものは今現在この地上にはないかもしれないが)を参照しつつ、同時に「今、ここ」を生きることに瞳を凝らしつづけ、考え続けていきたいのだ。

よく「エチカ福島」ってなんなんですか?と聞かれる。

誰をターゲットにして、何を、どのように、どこまで発信しようとしているのか、と。

これを聞かれると、私は思わず口ごもる。
世の中の(社会的)営為にはそういうことが分かっていないとダメなんだろうなあ。

すまん、よく分からん。

でもね。

生きる場所それ自体を「傷つけられる」って、つまりは場所が「弱い」ものだと改めて感じる体験をするって、そんなに簡単に

「じゃあどうすればいいのか」

という話が出てこないものだとも思うんだよね。

「エチカ福島」を始めようとするまで、1年半かかっている。
そして、始めてはみたものの、終着点は見えていない。
むしろ加速度を持った思考のドライブではなく、思考の「遅速度」を持った遅いドライブをここでは心がけておきたいのだ。

そういう意味では、「忘却装置」が働き始めてから、がむしろ勝負。

「復興」を加速させる、とか「スピード感をもって政策を実行する」とかいう話には眉にツバをつけて聴こうということになります。

そういうことで済ませられるなら、すませればいい。
その程度のことなら、1年半も経ってから、出し遅れた宿題のように考え始めることなど不用です。

でも、私は、私たち「エチカ福島」はそうは思わない。

「忘却装置」に身を委ねるのでもなく、「歴史的な大事件」としてだけ記憶=記録するのでもなく、「今」すなわち100年後にも100年前にも残るような痕跡を、洞窟の中の石に刻んでおきたいのです。

さて、そろそろ第2回について考え始めようという時期になってきました。

詳細は随時「エチカ福島」のブログで書きます。

5月〜6月にかけて「エチカ福島」第2回セミナーを開催しますので、ときどきそちらも覗いて見てください。

------引用終了

上のようなことが、私たち「エチカ福島」の目指すことです。



2013年3月28日付けの朝日新聞
論壇時評-オピニオン-

で、高橋源一郎は

敗戦直後に関する鶴見俊輔、
震災直後に関する小熊秀雄、
震災後の「今」に関する鷲田清一

三人の言葉を引きながら

「過去を忘れ、責任や問題から目を逸らし、楽観的に『未来』を語ろうとする『大きな力』に立ち向かう」

ことの重要性を述べている。

未読の方はぜひ。

私たち「エチカ福島」がこれから立とうとしている場所を示唆してくれる文章でした。

例えば政治と行政は、

堤防を新しく作り、早く移転計画を進め、中間処理場計画を進めて帰還を迅速にする

など、

今まで通りの「思考のOS」

で考え、それを実行ようとします。

その「威力」はかなりのものでもありましょう。

それらは確かに、

今まで通りの「思考のOS」

の限りにおいては「正しい」のかもしれません。

けれど、今まで通りの「思考のOS」がが結果としてこの人為のリミットとしての原発事故を招いたのだから、

今まで通りの「思考のOS」

それ自体を問わねばならないし、そのためにはいったん地べたに降り立って、はだしで

「思考のOS」

を一から立ち上げ直す必要がある、私たちはそう考えています。


この記事の中で引用されていた作業員の方の

「『収束』などしていない、『収束』したことにしたい人たちがいるのだ」


という言葉は、上に書いた政治と行政の身振りが持っている

「存在していない手品の素早さ」

が、いかに隠蔽的身振りとして機能しつづけているか、をよく示しています。

あらかじめ断っておくと、そういう政治と行政に携わる方々の「善意」とか「能力」を疑っているわけではありません。

問題は個人の選択とか、善意とか、そういうことだけで頑張って復興し、起こったことを

「積極的に忘却」

しまう「思考」が問題なのです。

無前提に前提してしまっているその前提(つまりは思考のOS)

を問い直したい。

そんな「遅速度」のかかった議論や検討につきあっているヒマはない……そういう声も聞こえてきそうです。

しかし、私たちはじっくり腰を据えて、「忘却装置」の作動に抗って行きたいと考えています。それが私たちのやるべき仕事の一つ、でもありましょう。

いうまでもなく、抗うこと自体を目的としているわけではありません。

今ここで、思考をつづけることが目的です。

というわけで、もうすぐ第2回「エチカ福島」を始動します。

加速度的というよりむしろ「遅速度的」(今村仁司)ですが、地べたから考え続けるための道具として「エチカ福島」が少しでも役に立てばいいのですけれど。














柄谷行人の『哲学の起源』が、雑誌「atプラス」15号で特集されている。
巻頭の対談は國分功一郎さんと柄谷氏本人。

きわめて興味深い特集である。
ぜひ『哲学の起源』本編は直接読んでいただければ、と思うが、メチャメチャ早わかり的に言えば、

民主主義をさかのぼるとギリシャにたどり着く。しかし、ギリシャの民主主義は奴隷制度と植民地支配を前提としていたものであり、むしろそういう前提を持たないギリシャ以前のイオニアに、自由と平等の哲学が参照され得る。それを「イソノミア(無支配)」と呼び、ギリシャを源流とする「民主主義」の問題点を洗い出す……

っていう流れです。
まあ、早わかりですから異議は受け付けません(笑)。

くわしくは本編と雑誌はを読んでください。

私は本編も特集もとてもおもしろく読みました。

学者ではない柄谷氏は、イオニアに対して(ソクラテスに対してもそうですが)、「可能的表現」においてほとんど虚構に近いイオニア像を紡ぎ出す。
イオニアはこうだった、ピュタゴラスはこういう人だった、ソクラテスは……と次々にほとんど「掟破り」の描写を重ねていくのである。

そのあたりの事情は、知人に教えていただいたこのサイトの解説が秀逸。

ぜひ参照をされたい。

ブログ「世界史の扉を開けると」
柄谷行人『哲学の起源』について1・2

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130217/1361065937

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130222/1361537378

ごらんになりましたか?
さて、このブログを読むと(ブログ子は歴史の専門家かとお見受けします)、そうかあ、そりゃ「乱暴」な話だわなあ、と納得できる。


atプラスの論文、とくに

納豊信留「古代ギリシアと向き合う」
大竹弘二「イソノミアの名、民主主義の名」

では、とくに歴史的な研究、哲学的な説明が参照されていて、とても勉強になった。


柄谷氏の求めるユートピアをイオニアに投影したもの、という指摘は、おそらく半ば以上確かなものと思われる。

つまり、「使用上の注意をよく読んでください」ってことだろう。

お願いだから、『哲学の起源』を読んだぐらいで、「やっぱりギリシャっ=民主主義ってのはだめだよなあ、イソノミアってのはさあ」とかしゃべらないでください的な老婆心も端々に感じられる。

「柄谷行人の本をとんでも本として読まないために」
という副題をつけてもいいぐらいだ。

柄谷行人という「おじいちゃん」の拾い方、を学ぶために、私のような素人には、この特集は必読でした。

柄谷行人の「イソノミア」を丁寧に拾っている國分功一郎氏の相づちの中にも、「柄谷行人の使い方」に対する「教育的配慮」が随所に表れている。

ただひとつだけ、書いておきたいのは、この特集の原稿が刺激的なのは、『哲学の起源』が「とんでも本」だからではなく、さまざまな学的ジャンプや曲解と見えかねないことを百も承知で、なお柄谷行人は遺言のようにこの作品を書いている、というところだ。

遺言というのは、それを自分自身では「行為」できないものだろう。
しかし、可能的行為としてそれは未来に向かって書かれるほかない。

そして、その未来に向かって書かれた可能的行為は、「痕跡としての」ユートピアを過去に発見し、それを称揚しているかに見えてしまう。
年をとって脳味噌がとろけたか、みたいな。

私たちはしかし、柄谷行人のこの仕事が意義なき「空想」や「幻想」だとは決して思わないだろう。こういう試みは、どうひっくり返っても、学者にはできない。

個人的なことに引きつけて言うのは気が引けるけれど、牽強付会はいつ出しても同じなのだから敢えていってしまえば、3.11以後のこの世界では、

「学問的にいえることといえないこと」を峻別することの重要性はさらに高まっている。

と同時に、「学問的には語り得ないこと」に沈黙する学者の良心は、この「現場で生きる力」とするには、正直それだけちゃ決定的に足りないとも考ずにはいられなくなった。

限られた知見に基づき誠実に無矛盾な世界像を積み重ねていく学問の理性的価値だけでは、生きるエンジンにはならない。

だって、学者たちだって官僚や企業とともに「ムラ」を形成していたわけだしね。ジャンルは違うし、原発とちがって哲学はお金にはならないけれど、だからといって「学会的」ギルドによる「とんでもな発想」を抑制する働きは、いつもプラスに働くわけではない、ということだ。

だからこそ、柄谷行人の言説を、「空想」や「幻想」とならべて語ってしまう「学者的言説」について、「卑怯者」と石川淳の小説に登場する女たちのように、なじってみたくもなるのです。

國分功一郎氏が冒頭指摘しているように、ハイデッガーの営為に触れながら
「確かにハイデッガーの読みには強引なところがあります。ただそこには圧倒的な魅力があることも確かではないでしょうか。」
とした上で、『哲学の起源』にも、ハイデッガーを突き動かしていたような強烈なパースペクティヴがあった、といのべる。
私たちは、そこにこそ強い「時代精神」に基づいた共感を覚えるのであって、ありもしないユートピアの幻想を共有して安心したいわけではあるまい。

繰り返すが、学者さんたちの指摘を無視して柄谷行人だけを参照する輩が大量発生するのはちょっと、という感じは分かる。

でも、学問の精確さだけが、その理性的使用だけが、世界を生きる「知性」として必要十分なわけではない。

こういう思考=試行こそが、私たちを勇気づけ、世界の見方を更新していくのではないか。


本編と雑誌、セットでお勧めする所以である。