柄谷行人の『哲学の起源』が、雑誌「atプラス」15号で特集されている。
巻頭の対談は國分功一郎さんと柄谷氏本人。

きわめて興味深い特集である。
ぜひ『哲学の起源』本編は直接読んでいただければ、と思うが、メチャメチャ早わかり的に言えば、

民主主義をさかのぼるとギリシャにたどり着く。しかし、ギリシャの民主主義は奴隷制度と植民地支配を前提としていたものであり、むしろそういう前提を持たないギリシャ以前のイオニアに、自由と平等の哲学が参照され得る。それを「イソノミア(無支配)」と呼び、ギリシャを源流とする「民主主義」の問題点を洗い出す……

っていう流れです。
まあ、早わかりですから異議は受け付けません(笑)。

くわしくは本編と雑誌はを読んでください。

私は本編も特集もとてもおもしろく読みました。

学者ではない柄谷氏は、イオニアに対して(ソクラテスに対してもそうですが)、「可能的表現」においてほとんど虚構に近いイオニア像を紡ぎ出す。
イオニアはこうだった、ピュタゴラスはこういう人だった、ソクラテスは……と次々にほとんど「掟破り」の描写を重ねていくのである。

そのあたりの事情は、知人に教えていただいたこのサイトの解説が秀逸。

ぜひ参照をされたい。

ブログ「世界史の扉を開けると」
柄谷行人『哲学の起源』について1・2

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130217/1361065937

http://d.hatena.ne.jp/whomoro/20130222/1361537378

ごらんになりましたか?
さて、このブログを読むと(ブログ子は歴史の専門家かとお見受けします)、そうかあ、そりゃ「乱暴」な話だわなあ、と納得できる。


atプラスの論文、とくに

納豊信留「古代ギリシアと向き合う」
大竹弘二「イソノミアの名、民主主義の名」

では、とくに歴史的な研究、哲学的な説明が参照されていて、とても勉強になった。


柄谷氏の求めるユートピアをイオニアに投影したもの、という指摘は、おそらく半ば以上確かなものと思われる。

つまり、「使用上の注意をよく読んでください」ってことだろう。

お願いだから、『哲学の起源』を読んだぐらいで、「やっぱりギリシャっ=民主主義ってのはだめだよなあ、イソノミアってのはさあ」とかしゃべらないでください的な老婆心も端々に感じられる。

「柄谷行人の本をとんでも本として読まないために」
という副題をつけてもいいぐらいだ。

柄谷行人という「おじいちゃん」の拾い方、を学ぶために、私のような素人には、この特集は必読でした。

柄谷行人の「イソノミア」を丁寧に拾っている國分功一郎氏の相づちの中にも、「柄谷行人の使い方」に対する「教育的配慮」が随所に表れている。

ただひとつだけ、書いておきたいのは、この特集の原稿が刺激的なのは、『哲学の起源』が「とんでも本」だからではなく、さまざまな学的ジャンプや曲解と見えかねないことを百も承知で、なお柄谷行人は遺言のようにこの作品を書いている、というところだ。

遺言というのは、それを自分自身では「行為」できないものだろう。
しかし、可能的行為としてそれは未来に向かって書かれるほかない。

そして、その未来に向かって書かれた可能的行為は、「痕跡としての」ユートピアを過去に発見し、それを称揚しているかに見えてしまう。
年をとって脳味噌がとろけたか、みたいな。

私たちはしかし、柄谷行人のこの仕事が意義なき「空想」や「幻想」だとは決して思わないだろう。こういう試みは、どうひっくり返っても、学者にはできない。

個人的なことに引きつけて言うのは気が引けるけれど、牽強付会はいつ出しても同じなのだから敢えていってしまえば、3.11以後のこの世界では、

「学問的にいえることといえないこと」を峻別することの重要性はさらに高まっている。

と同時に、「学問的には語り得ないこと」に沈黙する学者の良心は、この「現場で生きる力」とするには、正直それだけちゃ決定的に足りないとも考ずにはいられなくなった。

限られた知見に基づき誠実に無矛盾な世界像を積み重ねていく学問の理性的価値だけでは、生きるエンジンにはならない。

だって、学者たちだって官僚や企業とともに「ムラ」を形成していたわけだしね。ジャンルは違うし、原発とちがって哲学はお金にはならないけれど、だからといって「学会的」ギルドによる「とんでもな発想」を抑制する働きは、いつもプラスに働くわけではない、ということだ。

だからこそ、柄谷行人の言説を、「空想」や「幻想」とならべて語ってしまう「学者的言説」について、「卑怯者」と石川淳の小説に登場する女たちのように、なじってみたくもなるのです。

國分功一郎氏が冒頭指摘しているように、ハイデッガーの営為に触れながら
「確かにハイデッガーの読みには強引なところがあります。ただそこには圧倒的な魅力があることも確かではないでしょうか。」
とした上で、『哲学の起源』にも、ハイデッガーを突き動かしていたような強烈なパースペクティヴがあった、といのべる。
私たちは、そこにこそ強い「時代精神」に基づいた共感を覚えるのであって、ありもしないユートピアの幻想を共有して安心したいわけではあるまい。

繰り返すが、学者さんたちの指摘を無視して柄谷行人だけを参照する輩が大量発生するのはちょっと、という感じは分かる。

でも、学問の精確さだけが、その理性的使用だけが、世界を生きる「知性」として必要十分なわけではない。

こういう思考=試行こそが、私たちを勇気づけ、世界の見方を更新していくのではないか。


本編と雑誌、セットでお勧めする所以である。

対談:中沢新一×國分功一郎
atプラス叢書3『哲学の自然』が3/8に発売だそうです。

ちなみに、
國分功一郎『ドゥルーズ哲学原理』は6月に岩波書店新シリーズの1冊目として刊行されます。
これは面白いです!
中身は半分も分からないけれど、見慣れた風景ではない世界が、見慣れた風景よりもクリアに立ち上がってくる喜びがあります。
よろしかったらぜひ!

國分さんがFacebookで書いていた宮台さんのコメント。ちょっと引用させてもらいました。

引用開始ーーーーーー
昨日のシンポジウム(島貫注:2/22都道328号について住民投票を求めるイベント)の後での宮台さんの言葉。

「住民投票に関わって初めて、自分の人文的な知が役立つんだって分かった」。

確かに昨日の宮台さんの「自治」についてのお話は、宮台さんもつ理論的知と実証的な情報知が見事に組み合わされて展望を開く、そんなお話だった。

・官僚はコスト削減を考えない。これは理論的に証明できること。
・しかし国が使えるお金は今後間違いなく減って行く。
・地方で行われるべき公共工事のことを中央の官僚が分かってるはずがない。
・その地域に住む住民がその地域のことを一番知っている。だから、彼らがその地方で行われるべきことを判断する。その上で、お金が足りなければ中央に援助を頼む。
・そういう自治がなければ、我々は生き残れない。自治こそがいまの縮小する社会で生き延びる唯一の道であり、こうした自治の癖をいまからつけていかないといけない。
・官僚に公共性を定義させてはならない。しかし市民もこれまで公共性を積極的に定義しようとしてこなかった。これからそれを始めないといけない。

引用終了ーーーーーー

「縮小する社会で生き延びる唯一の道」

そう、生き延びなくちゃ!
そのためには、身近なことをあきらめず、同時に人文的な「知」を手放さないこと。

坂本龍一×國分功一郎対談
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20121218/241235/ 「知の発見が世界を救う」
1&2

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20121218/241235/

國分さんが、「エチカ福島」でも解説していただいたハイデッガーの技術論に触れています。
ご参照あれ。






こちらにも「エチカ福島」第1回セミナー関連の書き込みがありますよろしかったら参照してみてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/yamakawasennin/13972926.html



繰り返すけれど、「正しい」ことはきちんと認識されるべきだと思う。

東京電力第一原子力発電所は大規模な地震に耐えることができない、と指摘され、その通りだった。

これは本当に正しい。
私たちは彼らの声に耳を傾けるべきだった。
私たちの多くは耳を傾け、対策をとるべきだった。あるいは原発稼働を疑問なしに現状追認すべきではなかった。

しかし、実際にはそれができなかった。

さて、ではどうすればいい?

安全基準をもっと厳しくすれば再稼働していいのだろうか?
原発を即刻全て廃炉にすればいいのだろうか?

簡単に答えは出ないだろう。
それぞれの人が、それぞれの基準で大きな大きな話をしているのは分かるけれど。

そしてまた、事故が起こるまでは経済中心の視点が、事故が起こると安全重視の視点が、それぞれ「正しさ」を主張するのだろうか。

私にも意見はあるし、それは福島の住民として
「悪いことは言わないから原子力発電は止めておけ」
というものだけれど、ファンタジーのようにはそれが実現するわけではないだろう。

さて、ではどうすればいいのか。

今回の「エチカ福島」と「國分さん福島ツアー」を通じて、その可能性を少し考えることができた。

それは、たとえばこういうことだ。

今、福島の食の現場は厳しい。

厳しいとかいう言葉で形容することも躊躇われるような辛い現実がある。

ある飲食店のオーナーは
「果たして今福島で飲食店を営み、口に入る食べ物を出していいのか」
という疑問から始めざるを得なかった、という。

どこか遠くの安全な場所で、「想像力」から「恐怖」を導き出して「福島の食品は危険だ」と叫ぶ人が言うのではない。それは単なる「フクシマ」という記号に反応した「想像力」の発露に過ぎないだろう。

そうではなく、福島市内の現場で、その言葉が出てくることは、重く、深い。

で、彼は福島で休耕地を借りて、自分でそこを除染し、野菜を作りはじめる。
最初は高かった線量が、見よう見まねで工夫しながら実際に除染を続け、作物はND(検出基準以下)になった。

こういうことを言うのは躊躇われるが、福島県内だけが原子力発電所事故でセシウムが出ているわけではないだろう。
行政が正式に検査をしているのは福島県だけだ。
そしてさらに生産者が細心の注意を払って多重に手だてを講じ、重ねて継続的に検査しているのも福島県に限られているのではないか(出荷時にサンプル抽出の自主的検査をしている方は他にもあるだろうけれど)。

さて、ということは、皮肉なことだが、この多重な検査をくぐった福島産は、どことは言わないがもしかするとセシウム汚染があるかもしれない、そして公式にも個人的にも検査されていない地域のものよりは、安全だということに「なりかねない」。

私が現場を回って具体的にその作業の様子を見聞きしていくと、今放射能に関して言えば、「安全レベル」でいうと、丁寧にそうやって具体的な作業で検査されて出荷される福島県産(全てがそうだという意味ではありませんが)が、日本でトップクラスに「安全」だと実感した。

それはある意味「皮肉な」現実だ。

そして、その飲食店のオーナーがいみじくもいうように、そういう検査を尽くした「安全」と「安心」は違う。

だから、今回食に関するインタビューをさせていただいた現場の人々は決して、福島産が安全だから買ってください、食べてくださいとは言いたくない、と口を揃えて語った。

ある方は、
「福島のものは安全だから食べるべきだ」
ということは、たとえ応援のつもりの第三者であっても、あまり言ってほしくない、とまで語ってくれた。


彼らの実践と覚悟に接すると、想像力が生み出した「フクシマ」という「記号」の上でのYes/Noが、それだけでは実践的な意味を持たないことが理解できる。

最大限の努力をして、もしかするとそれが日本で(ということは世界で、です)もっとも放射能汚染について安全な基準を持っている産品かもしれないものでも、安心が成立するためには、まだまだたくさんのステップを踏まねばならない、と自覚し覚悟し、具体的に一歩一歩を歩んでいる方の表情を、ぜひ映像ができたら見てほしいと感じます。

それでも、
「不検出であっても福島のものは食べない」
という方はいるだろう。
それを無理に食べさせることはできないし、「安全」とか「危険」とかで説得することはしないだろうし、またすべきでもないだろう。

ただ、私たちは、地道で具体的な実践の積み重ね、その歩みを自分の瞳で見、自分の耳で聞き、味わいながら発信していくことはできる。

そんなことを考えた。












(以上)

しばらく國分さんのお話を離れて、島貫の考えを続けます。

2007年の時点で既に、もし東京電力福島第1原子力発電所で大きな地震が起きれば、全電源喪失が起きるという指摘がなされていた。
(下記サイトを参照のこと)

福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ
http://www.jcp-fukushima-pref.jp/seisaku/2007/20070724_02.html

こどもじゃないんだから、といったら子供に失礼だろう。
こういう指摘がなされていたことを、大人は知らなかったではすまされまい。
ちょっと常識がある大人なら、大地震が起こったらえらいことになるな、ぐらいは想像できる。

ただし「
誰だってそのぐらい考えるんだから、たぶんここにある原発もそのぐらい対策はされているんだろう」

ぐらいの高をくくってはいたかもしれない。

私は上記福島県共産党委員会の指摘が決定的に正しかったことが重要だと考えている。
つまり、「正しさ」なんかで人は動かなかった、ということだ。

福島県の県民だけが愚かだったのだろうか。東電の会長や職員は、悪鬼羅刹の化身だったのだろうか。
政府は福島県を不幸に陥れる計算をしてまでも、安価な電力を供給しようとたくらんでいたのだろうか。

そういうわかりやすい「陰謀的」世界観を抱く人の存在を止めることはできないけれど、私たちは大なり小なり「荷担」していた、というべきなんじゃないかな。

この「大なり小なり」ってのが実は決定的に大事で、このスペクトル的連続性をきちんと解析することは、事後的な正しさを論じる上では決定的に重要だ。
これからねばり強く我々はこの「責任」を問い続けていかねばならない。

「平凡な人間に事故は想像できなかった、命令を実行しただけだ、まさかこんなことがおきるとは思わなかった……」
こういう言い訳は、「想像力」に責任転嫁しているだけのことだろう。


ちなみに『「正しさ」も想像力に依存していては無力だし、責任論もまた、「想像力」とかいう能力に依拠していてははなしが終わってしまうだろう。
人間の責任は「想像力」において、ではなく、「倫理」において問われるべきだ、と私は(私たちは)考えている。それはさておき……

今ここで考えたいのはその「大なり小なり」の「連続性」と「切り分け」の政治的あるいは社会的な責任の話ではない。

今とりいそぎ問題にしたいのは、「正しさ」がなぜ共有されなかったか、だ。
私たちはこの共産党議員団の「申し入れ」が、結果から遡及すれば「正しかった」ことを知っている。

しかし、大震災と原発事故という圧倒的な「人為の裂け目」をのぞき込むことによって、そしてその裂け目の現前から遡及してしか、この「正しさ」は実感できなかった。

っていうか、滅多におこりはしない面倒なことを、事故も起こっていないうちからギャアギャア騒ぐのは、人騒がせじゃないか、的な「あなどり」というか「スルー願望」というか、そういうものがあったのだろうと思う。

人は危機に瀕しなければ真剣に考えないのか?

たぶんその通りなのだ。

じゃあ、「今」考えようじゃないか、というのが私のとりあえず、したいことだ。
他の人は知らず、私はこの「愚かさ」を抱えて、しっかり見据え続けて死んでいく。

もう瞳を逸らすことはない。

福島の状況が「歴史」の中に定位置を見いだし(何度も召喚されて新たな意味付けを去れ直すのが「歴史的事実」だから、そういう営為は1000年単位で続けられるにしても)、こういうことだったんだね、という共通した認識が得られるには、どうしたって時間がかかる。

そして、共通認識はその未来の時代における時代の認識OSに幾分かは依存した結論になるだろう。

私は、私たちは、「エチカ福島」で、そういう過去や未来における「正しさ」とは別に、混乱し、コンセンサスも容易には得られず、孤立しながらも全体と自分の関係を「危機」において思考し続けなければここに住むことができない「今ここ」で、何を揺らぎながら考えていくのか、を石に刻むように記録=記憶しておきたい。

繰り返すが、人はうまくいっているうちは、深刻に考えない。

私たちの生活を支える基盤として広い意味での社会的な資本、道路も電気も水も電気やガスのエネルギーも、行政サービスや通信手段も、職場の雇用もうまく回っているうちに、

「もし明日大地震が起こったら?」

といっても、日本中の人が「そりゃたいへんだ」といって原発は止めないだろう。
仮定ではなく、実際止めなかった。止められなかったのだ。

それは「しょうがない」ことであったかどうか分からない。
どうすることもできなかったのかどうか、分からない。
何か止める方法があったのだろうか。

分からない。
起こってしまったことからしか、本気の「可能的想像」は起動しないのだろう。
そしてその本気は、過去を書き換えることには役立たない。

しかし、今いきることの意義を考えることはできるし、それがこの「人為の裂け目」を目の当たりにした福島県の住民にとっては必要でもあり、それこそが生きるという現実に直結した思考の方法にもなるはずだ。

繰り返す。
私は(そしておそらく多くの私たちは)、この大震災の結果を見るまで、リアリティを持ってこの事態を想像することはできなかった。
安全神話を信じきっていたのでもなく、騙されていたのでもなく。

おそらくある常識を越えた想像力を動かすためには、事後的にしか十分には働かないのだ。
人はどんなことでも想像しえるし、トーナメント理論的に、「ほら言ったとおりじゃん」ということは、その中の一つには必ず許されてもいる。

どんな危険も「想定」することはできるだろう。

しかし、計算可能でかつ経済合理性に裏打ちされた「理性1」は、その多数の「可能」から、一つの選択をしていくわけだ。

そして今回のような結果がもたらされた。

ごくたまにしかおこらないあまりにも重大な事件にどれだけのコストを払うか、という国民的コンセンサスなどというものはもとより全くかつても今も成立していないし、そう簡単に成立するとも思われない。

さてではどうすればいいのか。
無限のコストを無限の「想像」において全て支払うことはナンセンスだ。
「神様が危険だって言ってるんです!」
といって人を説得しようとしているようなものだ。

だが、私たちはそこであきらめる必要はないし、あきらめもしない。

そういう風に現実に対応できなかった「理性」OSの見直しをする必要があるのではないか。

今回「エチカ福島」セミナーの後、映像作品作成のためにツアーを行ったわけだけれど、そこで出会った住民の方たちは、「今、ここ」から、与えられた可能性条件の中で、自分がいったい「どうしたいのか」ということに忠実に、確実な目標を持ちながら、遅速度的に歩みを進めていたのだ。

大きな正しさを論じるだけの主体(これは誰かを批判しているのではありません、私の中にもそういう主体は正しさを求めて簡単に立ち上がってしまうのですから)に任せていては、ことは絶対に進まない。

具体的ににどんな方法があり、それをいかに実践し、それを具体的にどう持続していくかの努力を模索する、というところからしか、現実は動かない、ということだろう。

詳細は映像作品ができるまで待つしかないが、一つだけここで指摘しておきたい。
(次へ続く)


「どっちかに決めろ、と言われても簡単には決められないよ」
という状況は日常の中にもよくあることだ。

しかし、今回ほど「どちらかに決めることが難しい」という状況の真っ只中に放り込まれたことはない……

國分さんはそうも言っていた。
それは今福島に住む者にとって、まさに直面している状況だ。

一方、それでも私たちはただ絶望して日々を過ごすだけでは生きられない。

たった一つの「正しい答え」を各自が信念として持つことは可能だが、その唯一性や正統性はだれも「裏書き」してはくれない。

さて。
そうなれば、裏書きの保証なき「正しさ」はもはやこどもの「駄々」と大して変わらない。

そこで「主体」を頼りにしたら、大変なことになる、というのはこどもだって分かるだろう。

このとき國分=スピノザは、「自由意志を持った主体」の価値を切り下げる。

セミナーではここのところ、一瞬触れただけで通り過ぎたので、不思議に思った人もいたかもしれません。

多分島貫と深瀬がてんこ盛りの未消化なレポートを出したので、これ以上未消化にならないよう、國分さんの「教育エンジン」が働いたのかもしれませんね。

でも、話は一貫している、と思います。

以下は、島貫の想像したことですが、だからこそ、具体的な物事において「思考」する、という現場での実践が必要だ、という姿勢(スタイル)が出てくるのではないでしょうか。

最初から答えがきまっているわけではない。何か「真実」が隠蔽されているならその抑圧や隠蔽を剥ぎ取れば良い。
しかし事態は、単純に隠され抑圧されたものを明らかにするという種類のことでは解決しない。
その抑圧は発生論で描写されねばならない。
「本来性なき疎外」(『暇と退屈の倫理学』)
が重要になる所以です。

うむむ。
うまく訂正できない……再アップします。
  

 
國分功一郎さんの

「日常的なことはあきらめられない」

ということばを聞いたことが、もしかすると今回最大の収穫の一つかもしれない。

この言葉は

スピノザ=ドゥルーズ=國分功一郎

の根底にあるものに触れている。
極めて哲学的に突き詰められ、現実の向こう側の遠くにあるような「哲学」を論じているようにみえながら、実は常に同時に

今=ここ

に視線を向け続ける。

そういうスタイルが共通している。

今ここが世界の開けだ、ということ。

常に具体的なものについて考える、ということは、思考は常に強いられて外からやってくる、とも見える。
しかし同時に、それを獲物を狙う動物のように待ちかまえているという点においては、単なる受動的な振る舞いとはほど遠い。

そういう「能動態」でもなく「受動態」でもない、いわば「中動態」とでもいうべき場所で、生成変化の端緒を「狙って待つ」。
動物=思考のプロフェッショナルの匂いがします。

民主主義についても、出生前診断についても、「実践的哲学」が不十分だった、怠ってきた、と國分さんは指摘していました。

「事件は現場で起こっている」

ということの半分を、ある「次元」で捉えるのではなく(現実の次元、で捉えるとその反対側に思惟の次元、が立ち上がってしまいます)、その場所で生起するという実践的な表れを、思惟するという表れと同時に踏まえて、「世界=自然=神」にまで動線を伸ばしていく。

そういう、途中二元論的にはなるけれど、最終的には一元論、みたいなところから発話しているように受け止めました。
だから、國分さんの発話は、哲学プロパーからみると学問から遠い、低い次元の啓蒙的(ことによったら営業的?)営為に拘泥しているようにすら見えるかもしれない。

他方「現場」から見ると、ちょっと面倒な手続きが間に入っているように感じてしまうことがあるかもしれない。

そこについて國分さん自身の言葉で明確な輪郭を見えるようにしてもらうには、『ドゥルーズの哲学原理』をリリースした後で書かれるはずのスピノザ論(なかんずく『エチカ』論)まで待たねばならないのでしょう。

だって、我らが(笑)東浩紀はそれを「複数性の超越論」と「単数性の超越論」を「併置」し、後者が前者の「誤配」(=根源的には二元論)として「ぷっ」と立ち上がるっていうのに対して、國分さんは「平行論」(延長=物質と思惟=観念は一致する)をほとんどフィクションとしてではなく、立てるわけですから。


いわゆるモノと観念が一致する、なんてことはデカルトの精神と物質の二元論以降、あり得ないわけで、どっかで嘘をついているか、神秘的直観主義に「陥る」か、ということになる。

でも、デカルトを推論知、スピノザを直観知としてカテゴライズして満足しないエンジンが、國分さんの中にはあって、だから徹底的に「実践=哲学」を実践するわけです。

だから、『スピノザの方法』と『暇と退屈の倫理学』について、前者を哲学書、後者を啓蒙書と見るのは不十分。

前者はいわゆる文法遊戯であり、パズルのような論理の構築なのに対して、後者は実践の森を哲学者が「遊歩」する行為になっている。
両方が、「驚くべきことに一致」しているから、國分功一郎という著者がこれだけ市場で「利用」されているのに、消費されつくさないのだと私は思います。

理論(知)→現実への適応(啓蒙)

じゃないのですね。

まあ、どう読んでも大きな支障はないですよ、と、國分さんも(あたかもスピノザが下宿のおばさんにその信仰を保証したように)、言うのかもしれないけれど。









次に続く。



  
JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学 
 本文ページがアップできなかったので再度書き込みます。

「エチカ福島」第1回セミナー
「大震災がもたらした畏れと倫理」
が2/9(土)午後、 橘高校同窓会館で実施されました。

参加下さった皆さん、本当にありがとうございました。
スタッフを含めて参加者は約40名。
現役の高校生から、80歳ちかくの方まで、幅広い年齢層の方に集まっていただいたきました。
イベントを企画した者として、とてもうれしかったです。

そして、予定を1時間近くオーバーする長丁場にもかかわらず熱心におつきあいいただいたことに感謝します。

初めてのイベントで、運営上の不備や内容バランス、進行の仕方など課題が残る面もたくさんありました。
次回以降の連絡も考えておられる方の連絡先の受け皿がなかったこと、

イベント自体についての感想•意見をいただく仕組みをもっと考えるべきだったこと、

取り上げた課題がてんこ盛りで、4時間もかけたのに議論の深まりという意味では不満が残ったこと

など要検討の点はたくさんあります。
せっかく皆さんに集まっていただくからには、より「面白い」場所を目指したいですから。

次回はもっとゆっくり考えたり、もう少し対話を深めることができる場にしていきたい、と思っています。

セミナーの内容自体について、これからこのサイトでゆっくり振り返っていきます。

よろしかったらお付き合い下さい。